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眠れない夜に

眠れない夜に

なかなか眠れない夜というのがときどきある。皆さんはそんな時、どうしているだろうか。

私の場合、以前は数学の問題を解いていた。それから詰め将棋と格闘していた時期もある。その後、チェスの問題をやったり、読書をしたりといろいろと工夫してきた。で、今はというとピアノを弾いている。

私の部屋にはピアノが三台あるのだが、そのうちの二つは電子ピアノだ。これは音量をかなり落とすこともできるし、ヘッドフォンに切り替えれば外部に音を漏らさないようにもできる。だから、真夜中に弾いていても誰の迷惑にもならないのだ。

別に上手に弾けるわけではないのだが、気に入った曲を弾いていると心が和む。そうして一、二時間ほど弾いているうちに本格的に眠くなってくるというわけだ。ピアノなんか弾くと頭が冴えてしまい、かえって眠れなくなるのではないかという気もするのだが、私の場合なぜか眠くなる。まあ、あまり本気で弾いていないということだろう。

ところが、最近面白い現象に気がついた。眠くなってからの方が上手く弾けるのだ。これはおかしい。本来、音楽は集中してやらなくては上手くいくはずがないのだが、どういうことだろう。いろいろ考えてみたが、おそらく身体の余計な力が抜けるせいではないだろうか。眠いと力が入らないのだ。だから音楽的にはダメでも、技術的には上手く弾けたりするのではないかと思う。

それはともかく、寝る頃になって成果が出てくると、寝るのがもったいなくなってしまう。結局、さらに弾き続けて、ますます床に入るのが遅くなるという悪循環にはまってしまった。

まずい。このままでは慢性的に睡眠不足になってしまうではないか。数学、将棋、チェス、読書、ピアノと眠れない夜の暇つぶしを工夫してきた私だが、そろそろ次の方策を講じなくてはなるまい。

だが、今のところ何も思いつかない。音楽でも聴くか? いや、だめだ。いつだったか、ある眠れない夜に、とあるCDをかけたところ、その音楽が気に入ってしまい、何十回も繰り返し聴いているうちに徹夜してしまった苦い経験がある。聴いているうちに寝てしまえるのならよいのだが、私はつい聴き入ってしまうのだ。

というわけで、何かよい方策を見つけなくては。

 

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Vサイン女子

五本指

ずっと前から気になっていたのだが、ネットでブログやらSNSの投稿やらの画像を見ていると、やたらとVサインをして写真に納まっている女性が多い。中には何枚も連続して常にVサインをしていたりする。あれは一体何だろう。

はっきり言って気持ち悪い。私だけかもしれないのだが、カメラを向けると反射的にVサインをする女性は生理的に受け付けない。たまになら許せるのだが、ほぼ毎回反射的にVサインをする女性には軽薄な印象を抱いてしまう。

実は随分前からこのように感じていたのだが、こんな事をカミングアウトすると世の中の多くのVサイン女子を敵に回してしまうかもしれないし、もし私の感覚が世間から大きくズレていた場合、惨めな思いをするかもしれないので黙っていたのだ。

しかし、今日は思い切って告白した次第である。私と同じように感じている同輩が大勢いることを心から祈る。それだけだ。

そもそも、Vサインというのは勝利のサインではないか。別に勝利したわけでもなんでもないのに反射的にVサインというのは意味がない。しかも、カニみたいで滑稽ではないか。せっかく五本も指があるのだから、わざわざ二本に減らして写真に写ることはあるまい。

それにしても、反射的にVサインをしてしまう女性が多いという事実は、ひょっとして、モデルとなった有名人がいるのではないだろうか。あるいは女性誌か何かでそういうポーズが流行っているのかもしれない。

とにかく、Vサイン女子を見ると、みんな同じポーズなので個性が全く感じられない。最近の日本人の傾向かもしれないが、大勢が同じ商品を買ったり、同じアーティストに群がったり、とにかく個性が認められない。これでは、まるでクローン人間のようではないか。

ちなみに、ネットで検索しても、まだ「Vサイン女子」という言葉は誕生していないらしい。ということは、この日記が元祖かもしれない。

そんなわけで、皆さん、Vサイン女子という言葉を流行らせてください。あるいはピースサイン女子でも構いません。
(画像は、まだVサインを知らない健全な女の子) 

 

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英語でコミュニケーション

コミュニケーション

最近、暇があると英語で書かれたエッセイばかり読んでいます。著者の考え方はもちろん、著者の生まれ育った国の文化や習慣なども垣間見ることができ、興味がつきません。

しかし、一番驚いたのは表現力です。といっても文学的な意味ではありません。私が衝撃を受けたのは、全くといっていいほど難しい熟語が出てこないことです。日本では大学入試に備えてあれほど詰め込むことを要求されている熟語が大して出てきません。単語も特に難しいものは滅多に出くわしません。それでいて、実に高度な内容を見事に伝達しているではありませんか。これはまさに目から鱗の感があります。

日本の大学入試では、学者が書いた文章や専門誌の論説みたいなお固い内容が多く、単語も結構難しいものが出てきます。熟語もたくさん記憶していなければ解けない問題も出題されます。しかし、そんな高度な単語や熟語を知らなくても立派に大人の文章が書けるのです。これはちょっとショックを受けました。

でも、考えてみれば当然かもしれません。私が今書いているこの日記でも、特に難しい単語や熟語は使っていません。「隔靴掻痒」などという熟語を知らなくても、「じれったい」とか「もどかしい」などと表現すれば済みますし、「四面楚歌」なら「誰からも助けてもらえない」とか「味方がいない」などと書けばよいわけです。別に難しい単語や熟語を使わなかったからといって文章の質が落ちるわけではありません。それどころか、かえって分かりやすい文章になるのではないでしょうか。

というわけで、専門用語を要する専門分野の論文でもない限り、極めて平易な語彙で社会的に通用する文章が書けるのです。問題は内容であって語彙ではありません。

となると、日本で行われている英語教育はちょっとピントがずれているような気がします。あそこまで膨大な語彙力を求める必要など、どこにもないように思うのです。新しい単語や熟語を増やすより、平易な語彙でどこまで表現できるかに挑戦した方が学生のためになるというのが私の結論です。実際、英語圏の社会人たちは平易な語彙で高度なコミュニケーションを行っているわけですから。

最近では、小学生から英語を必修科目にしているみたいですが、平易な語彙で済むようになれば、いままでどおり中学生から始めても全く問題ないように思えます。もちろん、子供の頃から始めた方が発音などは有利かもしれません。しかし、完璧な発音で「ママ、おなか減った」などと言えたとして、何の役に立つのでしょう。それよりは、多少発音に難があっても、社会の役に立つ言動が取れた方がはるかに意味があります。

要は、言葉を使って伝える内容が大切なのです。本当に大切な内容が伝わるなら、語彙が平易でも、発音がイマイチでも問題にはなりません。

日本の英語教育はもっと本質的なところに目を向けるべきではないでしょうか。

 

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私は薄味派

薄味がおすすめ

昨晩だったか、ちょと風呂上がりに何気なくテレビをつけたところ、肥満のグルメリポーターが「薄味の意味がわからない」というようなセリフを吐いていた。つまり、彼は濃い味の料理が好きで、薄味はその価値がわからないという意味なのだが、呆れた私は即座にテレビを切ってしまった。

薄味の良さがわからないグルメリポーターなど、それこそ存在価値が理解できない。確かに、毎日濃い味の料理ばかり食べていれば、薄味だと物足りなく感じるようになるのだろう。しかし、激辛のカレーや、こってりと油っぽい肉料理や、濃厚なスープや、やたら甘いデザートばかり食べていては身体に悪いではないか。事実、グルメリポーターといわれる人々は肥満で身動きがとれないような悲惨な姿になっていることが多い。言うまでもなく、肥満は健康の大敵である。

グルメか何か知らないが、身体を悪くしてまで食べまくるというのは常軌を逸している。しかも、そんな番組を視聴率欲しさに作り続けるテレビ局というのも、もはやモラルも誇りも何も感じられない。おそらく、感覚が麻痺しているのだろう。

はっきり言っておく。薄味こそ、味覚の王道だ。

ちなみに、肥満の野生動物など存在しないが、それはある程度食べると満腹中枢が刺激されてそれ以上食欲がなくなるからだ。ところが、サルを使った実験では、普段食べている芋だと適量で食べるのをやめるのに、調味料を使った芋を与えると、なんとひたすら食べ続けるという結果が出た。つまり、人間の発明した調味料というものは、満腹中枢を麻痺させる効果があるというわけである。なんのことはない、ソースやドレッシングやタレといった発明品は、味覚を変化させ、満腹中枢を麻痺させていたのだ。

ということは、もしかすると我々が美味しいといって太るまで食べる料理は、実は美味しいのではなく、ただ単に満腹中枢を麻痺させているだけなのかもしれない。逆に考えれば、満腹中枢を直接麻痺させるクスリを開発すれば、誰でも肥満体型にすることができるではないか。そう考えてくると、たかが味覚とはいえ、随分奥が深く、場合によっては我々の健康や寿命すら左右しかねない危険な問題を提起していると言えよう。

そこで、私が提唱するのは、決して満腹中枢を麻痺させたりすることなく、自然な量で満足する味覚。それでいて本当に美味しいと感じられる味覚を追求することだ。そのような味覚は恐らく薄味の中に見つかると私は信じる。

昔の人も言っていたように腹八分こそ健康の秘訣ではないか。となると、腹八分で幸せになれる味覚こそ、我々が追求するものではないだろうか。

とはいえ、子供の頃からファミリーレストランやハンバーガーレストランなどで食事をしてきた人々にはもはや無理かもしれない。外食産業は満腹中枢を麻痺させればさせるほど儲かるわけだから、味付けも濃厚路線をひた走ることになるからだ。例えば、デミグラスソースをたっぷりかけたハンバーガーでも私には十分すぎるほど濃厚なのだが、常連客には物足りないらしく、さらにとろとろと溶けたチーズまで加えたりして食欲をあおっている次第だ。

こういう食事をしている人に、私が冷や奴には醤油すら掛けず、豆腐のみをそのまま食べているとか、納豆にもタレはもちろん辛子も付けず、ただひたすら納豆のみを食べているとか、野菜サラダもドレッシングなど一切掛けずにそのまま野菜だけ食べている、といった話をすると多分理解できないだろう。しかし、素材さえ良ければ、何も掛けずに食べるというのは実に美味しい食べ方なのだ。みそ汁だって底が見えるほど薄くていい。とにかく、私は薄味派である。だからこそ、たまに中華などで濃厚な味に出会うと新鮮な驚きを楽しむことができるのだ。

というわけで、薄味を広めてゆきたいと思う。できれば学校給食などからそうしてほしいものだ。

 

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先生 ?

政治家は先生ではない

私は、先生という言葉は、学校の恩師などに対してのみ用いられるべきであるという認識をもっている。自分が師事したわけでもなんでもない人物に対して先生などと呼ぶのは筋違いという気がしてならないのだ。

しかし、世間では政治家のことを先生と呼ぶ人が多い。当たり前のように先生という敬称をつけて呼んでいるのを見て、私はその度に違和感を覚えてしまう。

はっきり言おう。議員は選挙によって選ばれた有権者の代表であり、有権者のために尽力するのが役目である。少なくとも議会制民主主義の理屈ではそうなる。断じて有権者より政治家の方がエライなどということはない。

実際、選挙期間中は彼らはひたすら頭を下げまくる。実に低姿勢だ。自分たちより有権者の方がエライということがよくわかっていると全身で表現している。ところが、選挙に受かった途端、先生と呼ばれてふんぞり返るというのはどういうことだろう。先生と呼ぶ方も呼ぶ方だ。学問や武芸でも教えてもらったことがあるのだろうか。個人的に師事しているならともかく、それほど面識のない政治家を先生などと呼ぶ理由はどこにもないではないか。

というわけで、私は政治家を先生と呼んだことは一度もない。常にさん付けで呼んでいる。あるいは肩書きを付けて呼ぶ。それだけだ。師事していない人を先生と呼ぶことは金輪際ない。ただし、大した実力もないのに周囲から先生と呼ばれている自称文化人などに対して皮肉をこめて先生と呼ぶことはたまにある。

とにかく、政治家も商売人も音楽家もみんな対等な人間である。政治家だからといって特別扱いする必要などない。にもかかわらず、みんなが先生、先生と呼ぶと、彼らも自分たちがすっかり偉くなったと勘違いしてしまうに違いない。それはこの国にとって決して喜ばしいことではないはずだ。

みなさん、政治家を先生と呼ぶのはもうやめにしようではありませんか。

 

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