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ツリーはツリーでも

縄文杉

今朝、ネットサーフィンをしていたら、とある外国人のリポートが目に入った。

彼のリポートによると、ツリーはツリーでも、東京スカイツリーよりも屋久島の縄文杉の方が魅力的であり、子供に見せてやるなら断然縄文杉だということらしい。東京スカイツリーは連日高さばかりテレビで報道されているが、景観としてはどうなのかと疑問を投げかけている。

確かに、近代的なタワーであり、伝統的な日本の美とは相容れない建造物かもしれない。下町の風情溢れる通りからスカイツリーが見えたりすると、なんだか異様な光景に感じられる人も少なくないだろう。もちろん、都心の大都会をバックになら、何も不自然なことはないが…

ただ、ここは日本だ。中東のドバイではあるまいし、高さを自慢する建造物など大して意味はないという気もする。今、東京ではスカイツリーで大賑わいかもしれないが、電波塔という役目を別にすれば、少なくとも私の人生には深い関わりはない。

それよりも、このリポートを読み、この外国人の言う屋久島の縄文杉の価値についてしばし考えさせられたことが重要だ。彼の指摘を待つまでもなく、縄文杉はこの地球上で最も古いツリーのひとつである。そんな大自然の力強さを屋久島では目の当たりにできるのだ。しかも、この外国人が驚いているように、屋久島ではゴミひとつ落ちていない。ここを訪れる日本人観光客の99%の人々がルールを守り、自然に敬意を払っている。その姿に彼は感動し、是非子供に見せてやりたいと思ったと述べている。

ここなのだ。私が彼のリポートに感心し、しばし考えさせられたのは。

屋久島では人々が自然を尊重し、大切にする。一方、東京スカイツリー周辺では、毎日ゴミのポイ捨てが大問題になっている。あなたなら、どちらの姿を子供に見せたいだろうか。私なら、この外国人同様、屋久島の縄文杉を選ぶだろう。

テクノロジーもいいが、豊かな自然と、それに対する謙虚な気持ちを大切にしたい。

 

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○○の習慣

習慣

最近、スティーブ・ジョブズに関する書籍をいろいろ読みあさっている。ただし、全て原著だ。

書店に行くと、邦訳もたくさん出ているみたいだが、別に専門書でもなく、単なるビジネス書や伝記なら原書で問題ない。というか、原書の方がはるかに読みやすい。なぜなら元々読みやすく書かれているからだ。そもそも読みにくい本だと売れないので、出版社から許可がでない。よく売れている本なら、まず間違いなく読みやすく書かれている。

一方、邦訳の場合、ビジネス書や話題になった人物の伝記などはとにかくハイスピードで翻訳を完成しなくてはならず、そのため翻訳の質に難があることが多い。じっくり時間をかけて細部にいたるまで丁寧に訳してゆけば問題ないのだが、今が旬といった書籍の出版はスピードが命である。大抵複数の下訳者がいて、一応のガイドラインは取り決めてあるだろうが、各々が好きなように訳したものを監修者がまとめる、といった感の翻訳が多い。だから読みにくいのだ。

例えば、私の手元にとあるドラッカーの本があるのだが、訳がイマイチである。はっきりいって原著の方が楽に読める。日本で買うと若干高くつくのが残念だが、邦訳が出る前にいち早く読む事ができるし、文章の質にまず間違いないだろうから、私は原書をお勧めする。ちなみに、レイモンド・チャンドラーのハードボイルドも原著に限る。これは絶対に譲れない。

さて、スティーブに関する本もそうだし、最近はまっている様々なエッセイもそうなのだが、好きだったり、興味を強く持てる書籍の場合、洋書であってもそれほど苦にならない。一方、大学入試用の長文問題集などは読んでいて途中で投げ出してしまう。要するに、つまらないのだ。

思うに、勉強を投資と考えると、より大きなリターンを得るためには、自分にとって関心の高いジャンルに絞り込むというのが得策だ。これは語学だけではなく、様々な事柄に当てはまると思う。漫然と努力していても、なかなか続かない。最初こそ、強いモチベーションのおかげて集中できるが、モチベーションほど容易く失われるものもない。やはり、確実なリターンが必要だ。そのためには、努力する前にしっかりと計画を立てる。そして、成果を確認しながら続けて行く仕組みがあると心強い。努力を習慣化するのだ。

かつて、野村克也氏は「習慣は天才に勝る」と言った。名言だ。洋書を読んでいて、ふと思ったのだが、人生のかなりの部分は習慣によって改善することができるはずだ。仕事もプライベートも…

そうか。それで、○○の習慣、などというタイトルの本が書店にいっぱいあるわけだな。だが、自分にとって有効な習慣は自分でカスタマイズするしかない。本のとおりやっても多分ダメだろう。

などと言いつつ、私もいつか○○の習慣というタイトルで本を書いてみたいという気持ちはある。 

 

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猫でダイエット

猫

最近、運動不足を解消する良い手だてを見つけた。食後に猫の相手をするのだ。

この猫については以前の日記にも書いたが、捨て猫の世話をしているボランティアの方から弟が譲り受けた猫である。最近、この猫が暇を持て余しているようなので私が相手をしてやることがあるのだが、これが結構な運動になっているというわけだ。

実は、私はとあるビルの五階に住んでいるのだが、ひとつ下の階に弟が猫と暮らしている。弟の帰りが遅いため、私が猫の相手をしてやることが多いのだが、この猫ときたら、エレベータでビルの一階にやたら降りたがる。

ところが、目的は一階に降りることではなく、一階から四階まで走って上がることなのだ。しかも、それを毎日何度もこなすのである。何が楽しいのかさっぱりわからないが、とにかくこれが毎日の日課なのだ。

そこで、私は食後にこの猫と一緒に毎日ビルの一階から四階まで走って上がることにしたのである。たいていは四階までだが、ときには六階の屋上まで上がることもある。猫はまだ若いので元気だが、私には正直きつい。しかし、これがいい運動になっていることは言うまでもない。

それにしても弟が猫を飼い出してからというもの、我が家の暮らしに様々な変化が起きている。まず、家族に笑顔が増えた。そして、私の運動量も…

とにかく、リビングの壁という壁が傷だらけになったり、いろいろと困ったこともあったが、どうやらこの猫も我が家の一員に収まったようである。

 

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発想のための環境

カフェで発想が生まれる?

今朝、iPhoneでTIME誌のモバイル版を読んでいたら、面白い記事を見つけた。なんでも、孤独と静寂は革新的なアイデアの誕生を阻害するといった内容だ。

この記事は、適度な雑音の中で考えることが斬新な発想を生むという研究結果を報告している。具体的には、カフェがお勧めだそうだ。カフェでは周りで人々が会話をし、バリスタがカプチーノやフラペチーノをせっせと作っている。そういうおだやかな雑音が革新的なアイデアを生む環境を提供してくれるらしい。

本当だろうか。

日本では、古来より考え事をするには、人里離れた山奥にこもり、ひとり静かに座禅でも組んで悟りを待つ、といったイメージがある。事実、そうやって孤独と静寂の中で独創的なアイデアを生み出した偉人も少なくない。

さて、真実はどちらなのか。

確かに、私もこの日記を書いていて、ネタが全く思い浮かばないことがある。ひどいときは、ひとり静かに机の前に座って、三時間たっても四時間たっても何も書けないこともある。これなど、孤独と静寂が発想の邪魔をしている状態なのかもしれないな。

その一方で、病院の待合室でネタが浮かんだり、街をぶらぶら歩いていて何かひらめいたりすることもある。う~む、TIME誌の記事にも一理ありそうだ。

恐らく、考えている内容にもよるし、その時の精神状態もあるだろう。煮詰まっているときは、それこそカフェにでも出掛けた方が気分転換になるだろうし、ひとりで集中した方が成果が出るときもあるだろう。

ちなみに、今日の夕方、この効果を試してみようとカフェに出掛けた。仕事と勉強の能率を格段に向上させる方法論をカフェで考えてみたのだ。だが、上手くいかなかった。残念ながら、隣の席に若い女性のグループがいて、彼女たちの会話が相当うるさかったのだ。やはり、「おだやかな雑音」というのがミソである。カフェの客の入りや客層などは毎回異なるわけだから、なかなか革新的なアイデアとやらを生む環境には出会えないのではあるまいか。

待てよ。もしかするとカフェもヨーグルトのように、ひとりひとりと相性があるのかもしれないな。自分にとってアイデアを生むのに適したカフェというのが案外どこかにあるのかもしれない。

よし、暇ができたらカフェ巡りをしてみよう。

 

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顔文字

顔文字

私は顔文字が苦手だ。携帯文化かネット文化か知らないが、よくまあ、あんなわけのわからない文字でコミュニケーションを取ろうとするものだ。理解に苦しむ。

などと書くと、今時の若い人たちからはオジン扱いされそうだが、これは年齢とは無関係の問題である。私と同世代の人たちでも顔文字を多様する人は少なくないのだ。問題は、私が顔文字に不快感を覚えるということである。

はっきり言おう。私は顔文字を多用する人は嫌いだ。

まあ、私も社会人だから、あからさまに不愉快な表情を見せたり、不満を述べたりはしない。顔文字付きでメールが来ても、ごく普通に対処する。が、心の中では軽蔑していることが多い。あっ、言っちゃった。

こんなことを書くと、また敵が増えるかもしれないし、私に悪意を持つ人も出てくるかもしれないので本当は書きたくないのだが、黙っているのもストレスが溜まる。というわけで今日は思い切ってカミングアウトした次第だ。

私としては日本語くらい美しい言語はないのだから、顔文字など使わず、もっと日本語の表現を磨いてほしいと思う。ちゃんと使えば、日本語でしっかりコミュニケーションが取れるはずだ。顔文字でニュアンスや心情を補ったり、相手に推し量ってもらおうというのは、言語能力の欠如を露呈しているようにしか思えない。

特に気に入らないのが、顔文字を多用する男だ。女性ならまだ許せるのだが、男で顔文字を使う奴にはうんざりする。私の部下ならサッサとクビにするところだ。特に、顔文字がオシャレだとか、ナウいなどと勘違いしている男には吐き気がする。

というわけで、またしても自分勝手な日記を書いてしまったが、まあいいだろう。許す。

とにかく、きびだんご王国の辞書に顔文字はない。

 

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