きびだんご王国 | 桃太郎伝説ときびだんごについて、岡山の有志が集まって楽しく語るサイト

きびだんご王国 桃太郎伝説

大津市のいじめ問題に想う

大津市のいじめ問題

大津市のいじめ自殺が大問題となり、とうとう警察も重い腰を上げたようですが、今回の事件はいったい何なんでしょうか。

舞台となった滋賀県大津市立皇子山中学校ですが、ワイドショーなどで話を聞く限り、腐った教師しかいないクズ中学のようにしか受け取れません。が、本当のところはどうなんでしょうか。

私の地元の岡山でも、かつて私の母が中学校のPTA会に出席したところ、校長先生から「私は来年で定年退職なので、皆さん、どうか波風を立てないで下さいね」という挨拶があったということです。要するに波風が立つと、自分のキャリアに傷がつき、場合によっては責任を取らされるかもしれないということを不安がっているわけです。まったく情けない。教育のためには自分がいつでも矢面に立つというくらいの気概がなければ校長などなるなと言いたいのですが、実際にはその程度の人物が校長になっているというのが現実です。

そんな状態で教育などできるはずもありません。しかし、生徒の側にも問題があります。いくら教師といってもただの人間ですから、変な人もいれば、いい加減な人もいます。熱血教師ドラマに出てくるような素敵な教師など例外中の例外でしょうから、やはり、自分の人生は生徒が自分自身で切り開くしかないでしょう。

ちなみに、私は中学、高校と生徒会長をしていましたが、あまり教師の言う事は聞かなかったように思います。もっとも、中学時代は先生方とは一部の方を除いて良好な関係を築いており、大体私の自由にさせてくださいました。一方、高校では私を理解できない教師が多く、随分私のいないところで私の悪口を言っていたみたいです。本人は知らないと思いますが、ちゃんと私の耳には入っていたのです。怖いですね。

で、職員会議で決まったことを私が生徒会で覆したりして、ますます私を疎んじる教師が出てきたようでした。それが全ての理由というわけではないのでしょうが、生徒会長であったにも関わらず、卒業式では答辞を読ませてもらえませんでした。これなんか、教師から私に対する嫌がらせ、あるいは、いじめの一種ではないでしょうか。少なくとも、私の行動に対する評価ではあったはずです。そんなわけで、私は卒業以来一度も高校の同窓会には出席していません。いまだに気分が悪いからです。私の心の中では卒業したというより、追い出されたという感覚に近いものがあるのです。

それはともかく、生徒の自主性を重んじない教育ってなんなんでしょうね。教師の決めた通りに行動するロボットのような生徒を褒め、自分の頭で考えて、他人とは違った発想で行動する生徒を毛嫌いする。残念ながら、私が在籍していた当時の岡山市立一宮高校はそういうところでした。

いじめもありましたよ。特に中学のときはすごかったですね。私が選挙で3年生を打ち破り、2年のときに生徒会長になったものだから、随分と3年生がふがいなさを教師に叱られたみたいです。で、上級生から屋上に呼び出されて15人ほどに囲まれたりもしました。なんか暴力団みたいでしょ。私の一年上の先輩方には脳みそがほとんどないクソ野郎が多かったのです。あれから30年以上経ちますが、彼らはどうしてるんでしょうね。落ちぶれていればざまあみろですが…

結局、私は頭を下げませんでした。相手が先輩であろうが、いじめっ子であろうが、自分が正しいと信じたら最後、絶対に頭を下げない男だったのです。だから先輩方には相当憎まれたみたいでした。もともと1年生のときに3年生の一番強い不良の人に見込まれたおかげで、2年生も私には手が出せなかったのですが、その先輩がオートバイ事故で死んでからというもの、後ろ盾をなくした私には風当たりが強くなっていたのです。で、私が2年のときに、あろうことか3年生の候補者よりも遥かに多くの票を得たものだから、私が生徒会長になってしまった。この日から先輩方のいじめが始まったのです。

というわけで、私は常に上級生からはいろいろと嫌な目にあってきたのですが、常に戦ってきました。絶対に負けないという態度で生きて来たわけです。だから、いじめられて死んでしまう人がよくわかりません。私ならいじめられたら殴り返すだけですが…

で、高校に入ると一期生だったこともあり、先輩がいなかったのです。それでは自由な学生生活が送れたかというと、これが全くの正反対でした。新設校ということで校風も伝統もありません。何もかもが手探りの状態であり、先生方も寄せ集めでチームワークなどありませんでした。結局、なるべく波風を立てずに無難に収めようという態度の教師がほとんどだったと記憶しています。保守的な雰囲気の中で、革新的、独創的であり続けようとした私にはつらい3年間でした。

というわけで、中学では先輩方からのいじめに苦しみ、高校では先生方からの無理解に苦しんだわけです。だから、中学、高校を通してあまり楽しい思い出がありません。それでも探せば少しはあるので、それが心の慰めにはなっています。

それはともかく、私の後輩の一人が、正しいと思ったら曲げないという私の生き方に憧れていたそうです。その後輩は正義を貫いて暴漢と戦い、大けがをして重度の障害者になりました。そして、しばらくして亡くなりました。精悍な顔立ちで体躯のしっかりした立派な男でした。

私の生き様は間違っていないと思うのですが、それを見習って命を落とした後輩がいるというのはなんとも辛いことです。暴力に屈して自殺するのも辛いですが、暴力と戦って命を落とすのも辛いです。今回の事件ではいろいろと考えさせられています。

評論家の方々も野次馬の方々もいろいろとおっしゃいますが、最後は、ひとりひとりに何ができるかです。ここを考えないかぎり先に進むべきではありません。 

 

きびだんご王国のFacebookページは、コチラ

カテゴリー : もろもろ

安全運転

安全運転

福岡市では職員の飲酒にまつわる不祥事が後を絶たないため、とうとう一ヶ月の禁酒命令が出たらしい。確かに、2006年に起こった三児死亡事故は記憶に新しい。その後も次から次へと事件、事故が続き、なんとかしなければという福岡市長の気持ちもわかる。とりわけ、交通事故は深刻な問題だ。

恐らく、近い将来、飲酒をするとエンジンがかからない車が実用化されるだろう。自動で車間距離を確保したり、ブレーキをかけたりといった機能も標準装備されるにちがいない。

一方、老人によくある、ブレーキとアクセルの踏み間違えを防ぐにはどうしたらいいだろう。駐車場で壁との距離を計測し、ある程度の距離に近づくとアクセルを踏んでも作動しなくするという機能が搭載されるのだろうか。

しかし、こうした機能てんこ盛りの車だと、整備も大変だし、故障も多いのではないだろうか。それならばいっそ、人工知能を搭載して全自動で車に運転をまかせてしまった方が早い。そういえば、そんなアメリカのテレビ番組があったっけ。そうそう、「ナイトライダー」だ。ナイト財団が開発したキットと呼ばれる人工知能を搭載したスーパーカー、その名もナイト2000が大活躍するアクションドラマで、主演のマイケル・ナイトに演技力は無視してルックスで選ばれたデビット・ハッセルホフが毎回能天気なわざとらしい演技でお茶の間を湧かしたアノ番組だ。

特に最終回でナイト2000がオープンカーに変身し、美女をはべらして遊びに興じるシーンは、えっこんな結末でいいの、と思わず声を失ったものである。

それはともかく、人工知能を搭載するといろいろと面白いことが起こる。まず、運転中に人工知能が話しかけてくるのだ。これはいい、話し相手がいれば居眠り防止にもつながる。さて、どんな会話が成り立つのだろうか。

例えば、酒を飲んでハンドルを握ると、人工知能が「おまえはもう死んでいる」とのたまう。スピードを出しすぎると「今捕まれば簡易裁判で罰金二桁だぜ」とか、交差点では、「もしかすると子どもが飛び出すかもな」などとささやく…

ちょっと待て、人工知能は自動操縦するんじゃなかったっけ。なら、そんな会話は無用ではないか。いやいや、そうではない。人工知能も学ばなくてはならないのだ。あらかじめプログラムされた動作を行うだけなら、人工知能の価値はない。人工知能は、ドライバーとの会話を通じて、そのドライバーにとって理想的なパートナーに進化してゆくのだ。

だから、ドライバーが無能だと、人工知能も無能になってゆく…

だめだ、結局、ドライバーが努力して安全運転をする以外はないようだ。

 

きびだんご王国のFacebookページは、コチラ。 

カテゴリー : もろもろ

自分の五感を信じよう

自分の五感を信じよう

最近、とある石けんが原因のアレルギー問題で集団訴訟がなされているらしい。私が驚いたのは、被害者の数だ。問題の石けんは非常に高価で、ちょっと買うのをためらうような値段なのだが、にもかかわらず、おびただしい数の人々が購入していたという事実に違和感を覚える。

おそらく、テレビCMの影響であろう。この国の住民は自分の五感で判断せず、テレビCMや芸能人の発言などを元に判断してしまうという短絡的な購買動向を示すようだ。

しかし、テレビCMを大量に流せるということは、その費用を価格に転嫁しているわけだから、実際の商品の値打ちは随分低い。そう考えるのが当たり前なのだが、なぜかテレビCMをやっていると、飛びついてしまう人が大勢いるらしい。

だが、真実は逆なのだ。本当に厳選された原材料を使った商品なら、テレビCMなど流す予算はない。もし、最高級の素材で作った商品にテレビCMを加えれば、今回の石けんなどよりもはるかに高額の石けんになってしまう。つまり、誰も買わないような値段になるわけだ。だから、良心的な商品なら、たいしてテレビCMなどしないということになる。つまり、テレビCMをしていない商品こそ、我々は買うべきなのだ。

ちなみに、私は大々的にコマーシャルしている商品はまず買わない。私のライフスタイルであり、哲学と言ってもいい。これは一般論だが、商品が粗悪であればあるほどコマーシャルに力を入れるのが業者というものだ。典型的なのが、新聞の折り込み広告に入っているパワーストーンとかミラクルパワーの指輪といった商品だ。こうした折り込み広告を見れば、広告のノウハウが凝縮されており、大変勉強になる。購入者の喜びの声とか、某大学教授(大抵外国人)の推薦の言葉とか、様々なデータ(出所不明だが)によるグラフなど、フルカラーで徹底的に作り込んでいる。なぜ、そこまで作り込むのかといえば、商品が三流だからだ。

というわけで、CMほど当てにならないものはない。あまり名前を出したくないのだが、某蜂蜜屋などは怪しさマックスだ。3文字の健康食品会社や青汁関連もうさん臭いことこの上ない。

ま、私は手を出さないが、みなさんは自己責任でどうぞ。

 

きびだんご王国のFacebookページは、コチラ

カテゴリー : もろもろ

不安だ

不安

最近どうも一人前でない日本人が多いような気がする。

まず気になるのは言葉遣いだ。これは新聞やテレビといったメディアの責任もあるが、とにかく間違いが多すぎる。

最も多いのが、次の二つだ。

1) 檄を飛ばす
2) 豹変する

1) は檄文と呼ばれる決起を促したり賛同を求めたりする文書を送りつけるということで、激励するという意味ではない。よく、高校野球に関する放送や新聞記事で監督が選手に檄を飛ばすなどという表現に出くわすが、大間違いだ。

2) は、豹の毛が生え変わって美しくなるということから、立派な人物は過ちを認めて考えを改めるという意味で、褒め言葉である。よく、選挙のときは減税路線だったのに当選したとたん増税路線に豹変したなどという表現を耳にするが、大間違いだ。

こうした大間違いの日本語に出会うと、その人物の教養を疑うわけだが、しかし、今回私が指摘したいのは、こうした間違い以前の、もはや日本語の体をなしていないメチャクチャな日本語で会話をしている若者が多いということだ。はっきりいって、このレベルになると、もはや通訳を介さないかぎり意思の疎通は不可能だ。

敬語が使えないのは当たり前。ら抜き言葉も当たり前。それどころか、会話そのものが成り立たない日本人が増殖しているのが今の日本だ。こんな状態で本当に小学生から英語など学ぶ必要があるのだろうか。なにせ社会人になっても日本語が話せない者が続出している今日である。私は不安を感じて仕方がない。

だが、問題は若者だけではない。最近は情けない老人も増えた。普通、老人ともなれば人生を長く歩いて来たわけだから、若者の手本となるのが当たり前だ。ところが、何も悟っていない、忍耐も思慮も何もかも欠けている老人が多い。私が彼らの親ならどなりつけてやるところだが、私の方がはるかに若いのでそうもいかない。

私は老人に接するとき、彼らから人生を学ばせていただこうと考える。ところが、こっちが教えてやらねばならないような事態に遭遇すると、がっかりを通り越して戦慄さえ覚えてしまう。日本が崩れていくような恐怖を感じるのだ。

こうした一人前でない日本人は何が原因で増えているのだろう。世の中が便利になりすぎたせいだろうか。自然を破壊しすぎたせいだろうか。食生活が偏ったからだろうか。教育のせいだろうか。政治のせいだろうか。それとも低俗なテレビ番組のせいだろうか。

う~む、わからない。だが、日本にとって、日本人の劣化ほど恐ろしいものはないと思う。そういえば、光宙(ぴかちゅう)などという名前を子供に付ける親もいるという。こんなヘンテコリンな名前をキラキラネームなどと呼ぶそうだが、そんな名前を付ける親がいる家庭で育った子供たちが社会人になる頃、この国はどうなっているのだろう。

不安だ。

 

きびだんご王国のFacebookページは、コチラ。 

カテゴリー : もろもろ

報道番組

報道

つい先日、京都の祇園で悲惨な交通事故があり、報道番組が連日その話題でもちきりだと思っていたら、同じ京都の亀岡市で登校中の児童らが死傷する事故が起きた途端、祇園の話題はどこかへ消え去り、亀岡の事故一色となった。と思っていたら、今度は群馬県藤岡市の関越自動車道で激しいバスによる死傷事故が起きた途端、亀岡の話題は消え失せ、毎日関越自動車道の事故の話題ばかりである。

本来なら、問題の本質を深く追求するのが報道番組の役目だと思うのだが、どうやら新しい話題が登場する度にそれまでの話題とおさらばするのが実態のようだ。確かに限られた放送時間で全てを取り上げることは難しく、新しい話題にシフトしなくてはならない事情も理解できなくはない。しかし、決して忘れ去られてはならない事件や事故がこうもあっさり話題に上らなくなる報道番組には違和感を覚える。

限られた時間といいながら、なぜかどうでもいい芸能人の話題や大リーグの結果なども伝えているではないか。そんな時間があったら風化させてはならない事件や事故について検証報道を続けてほしい。よく、役所は事件や事故が起きてから後手後手に対策を立てると報道番組は批判するが、事件や事故が起きてから過去の事例に検証を加える自分たちの態度に対する反省は全く聞こえてこない。これはフェアではないだろう。

それに、さっきまで沈痛な表情で暗いニュースを読んでいたアナウンサーが、「次のニュースです」と言った途端、満面の笑みを浮かべて嬉しいニュースを読み上げるというのも、ありふれた光景とはいえ、やはり違和感を禁じ得ない。

そこで、私からの提案だが、この際、「明るいニュース(仮題)」という報道番組と「暗いニュース(仮題)」という報道番組を立ち上げる。それぞれ一時間程度でいいだろう。「明るいニュース」ではひたすら明るい話題だけを取り上げ、「暗いニュース」ではひたすら暗い話題だけを取り上げるのだ。もちろんキャスターも分ける。前者ではキャスターには爽やかな装いで登場してもらい、スタジオのセットも明るくする。逆に、後者では地味な服装でセットも厳かにするというわけだ。

これなら何の違和感も生じない。それに、暗い話題が嫌だという人はチャンネルを変えて見なければ済む。「明るいニュース」だけ見ていれば心も和むだろう。また、芸能やスポーツはそれ専用のワイドショーやスポーツ番組に譲って、あくまでも報道に徹するのだ。こうすれば、それぞれのニュースに対して十分な時間を割くことができ、重要な事件や事故についての継続的な検証報道も可能だ。新しい事件・事故が起こっても過去の事件・事故を消し去ることも少なくなるだろう。

問題は、暗いニュースを長年担当したキャスターには暗いというイメージが定着してしまい、その後バラエティー番組などへの進出が難しくなるということだ。嫌がるアナウンサーも少なくないと思うが、くじ引きでもして決めるしかない。

とにかく、私がプロデューサーなら、報道番組の常識を変えてみせる。

とはいえ、視聴率が取れるかどうかかなり怪しい。いつものことだが、今日も無責任な日記になってしまった。

 

きびだんご王国のFacebookページは、コチラ。  

カテゴリー : もろもろ