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PK戦

サッカー

FIFA(国際サッカー連盟)のブラッター会長が、PK戦での決着について「悲劇」を生む可能性があると述べ、将来的に何らかの変更を行う可能性を示唆したという。

確かに、PK戦による決着は面白くない。サッカーの醍醐味であるゴールによる決着ではなく、PK戦というのは精神衛生上あまりよくない。特に、シュートをはずした選手の中には一生トラウマが残る者もいるにちがいない。勝負の世界は厳しいものではあるが、しかし、サッカーのPK戦ほど残酷なものもないだろう。

もっとも、ゴールキーパーにとってはヒーローになるチャンスでもあり、中にはPK戦に情熱を注いでいるキーパーもいるのかもしれない。しかし、選手としても、サポーターとしてもPK戦での敗北は到底納得のいくものではない。とりわけ試合内容で勝っていた場合は無念の極みである。

この点、ゴールデンゴール方式というのもあって、延長戦で先にゴールを決めた方がそのまま勝利という、なんだか野球のサヨナラ勝ちに似たルールもある。これだと、延長戦で得点が生まれた場合、同点に追いつくことができないため、延長で点を取り合ってPK戦に突入という事態は避けられる。だが、これとて無得点のまま終了のホイッスルが鳴れば、結局はPK戦でしか決着がつかないことには変わりがない。

そこで、私が新ルールを提案しよう。

その1。開始前にPK戦を行う。

つまり、あらかじめPK戦を行っておき、万一同点で終了した場合は、試合前のPK戦の勝者の勝利とする。これだと、PK戦で負けていても、試合で勝てば帳消しになるため、PK戦でシュートをはずした選手もトラウマにはなりにくい。むしろモチベーションが上がるのではないだろうか。

その2。ファールの少ない方の勝ちとする。

同点で終了した場合、総ファール数の少なかった方のチームの勝利とすればいい。例えば、通常のファールを1点、イエローカードを2点、レッドカードを3点として合計し、点数の少ない方を勝ちとするわけだ。これだと、フェアなプレーに徹した方が有利となるため、試合の質も向上するだろう。

その3。再試合。

これは日程の関係で無理かもしれない。しかし、野球でも延長戦で勝負がつかないときは再試合になるではないか。サッカーでも日程が許すなら、再試合という選択肢もあっていいのではないだろうか。

以上が私の提案だ。この他にもボール支配率で決めるとか、いろいろとアイデアはあるだろうが、この辺りが妥当なところだと思う。

さて、ブラッター会長はどんな対策を講じてくるのだろう。楽しみだ。

 

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田舎へ行こう

田舎

このところ暇さえあれば書籍を購入しまくっている。

もともと私は読書好きで、我が家はもはや本を置く場所もないほど本だらけなのだが、何度も不要な本を売ったり、差し上げたりしても次から次へと増えるため、もうどうにもならない状態だ。これはまさに読書のメタボ状態と言えよう。

メタボと言えばやはり身体に悪い。ひょっとすると読書のメタボも問題があるのかもしれないな。そもそも既に一生の間に読み切れないほどの蔵書があることは間違いない。その上で、毎日のように本が増えているわけだから、これはどう考えてもマズイ。もしかすると、読書中毒にかかっているのかもしれない。ひょっとして、読書はタバコや酒のように依存症を引き起こしたりするのだろうか。この点に関しては一度医者に質問してみるしかあるまい。

問題は、私の読書の幅の広さだ。専門分野だけ読んでいれば最小の読書量で済むのに、なぜか趣味が多い。将棋やチェスや数学や物理学や語学や歴史や美術や音楽や生物学や古文や政治や経済や宗教や、その他、エッセイや旅行記や服飾や料理やワインやビジネスやらと、我ながらよくもまあこれだけいろいろ読むものだと呆れるほど何でも読んでいる。

さすがにこれだけ読んでいるともはや速読でも追いつかない。もうこうなったら、書籍を額に当てて脳裏に念写でもするしかない状態だ。はっきり言って、きびだんご日記など書いている時間もほとんどない。

しかも、私の場合、特に気に入った本は二冊買う。一冊は書き込み用で、もう一冊は保存用だ。もはや、田舎に広い土地を買って巨大な書庫を備えた家を建てるしか道は残されていないかもしれないな。う〜む、それまでに本の重みで床がぬけなければいいのだが…

 

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投資?

投資

フェイスブックの上場に伴って株を購入したものの、その後の値下がりで損失を出した投資家たちが訴えを起すらしい。なんでも公示価格が高すぎたのではないか、などとぬかしているらしい。

はっきり言っておく。高いと思えば買わなければいいのだ。

そもそも、株などというものは、バカが買えば上がり、バカが売れば下がる。それだけだ。だから相場の動きに一喜一憂する必要などない。企業の価値に対して安いと思えば買って長期保有し、値が上がるのをひたすら待てばよいし、高すぎると思えば最初から手を出さなければいい。

私の場合、株を買うときは、企業について徹底的に調べる。最低でも過去10年間の財務諸表には目を通す。その上で様々な指標についてデータを解析し、将来の成長を予測する。さらに経営者が書籍を著していたらそれも読む。また、雑誌のインタヴューなどがあれば、それも入手する。

そうして、入念に調べあげた上で、この会社なら大丈夫と確信したものの中から、さらに絞り込んで投資する。そして、一度信じて購入した株は5年、10年と長期保有する。だから、毎日の株価の変動など全く気にしない。たとえ買った株が半値に下がっても、自分の目に狂いがなければやがて値を戻し、最終的には利益をもたらすはずだ。だから安心して待っていればいい。逆に言えば、そこまで自信がないのなら株など買ったりはしない。

よく、証券会社に勧められた株を買って損をしたといって怒る人がいるが、本末転倒だ。証券会社は株の売買手数料で儲けているので、株が上がろうが下がろうが、極端なことを言えばどうでもいいのだ。売買取引さえ成立すれば手数料収入が発生する仕組みなのだ。結局、損失は投資家の自己責任となる。

だから、投資家は自分の目で判断して行動するしかない。損をして慌てるくらいなら投資などしなければよいのだ。

おそらく、今回騒いでいるのは、短期間に儲けを出そうとしているトレーダーやその系統の人たち、あるいはブームに踊らされて甘い夢を見た人たちではないだろうか。私はデイトレーディングのような短期投資は一切やらないので、彼らには何の共感も同情もない。どうして、みんな目先の利益にばかり関心があるのだろう。本来、企業の株を買うということは、その企業を応援するということではないのか。自分が好きで応援している企業の株なら、値が下がってもにっこり笑って保有しておけばいいではないか。

要するに、フェイスブックが好きで応援しようという人たちではなく、ブームに乗っかって一儲けしてやろうと欲をかいた人々が群集心理で上場に集まって来たというのが今回の騒動の正体なのだろう。ま、よくある光景だ。今回は規模が大きかったのでいつもより騒がしいが…

それにしても、人間の欲というものはどうにも気分の悪いものである。

 

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安全運転

安全運転

福岡市では職員の飲酒にまつわる不祥事が後を絶たないため、とうとう一ヶ月の禁酒命令が出たらしい。確かに、2006年に起こった三児死亡事故は記憶に新しい。その後も次から次へと事件、事故が続き、なんとかしなければという福岡市長の気持ちもわかる。とりわけ、交通事故は深刻な問題だ。

恐らく、近い将来、飲酒をするとエンジンがかからない車が実用化されるだろう。自動で車間距離を確保したり、ブレーキをかけたりといった機能も標準装備されるにちがいない。

一方、老人によくある、ブレーキとアクセルの踏み間違えを防ぐにはどうしたらいいだろう。駐車場で壁との距離を計測し、ある程度の距離に近づくとアクセルを踏んでも作動しなくするという機能が搭載されるのだろうか。

しかし、こうした機能てんこ盛りの車だと、整備も大変だし、故障も多いのではないだろうか。それならばいっそ、人工知能を搭載して全自動で車に運転をまかせてしまった方が早い。そういえば、そんなアメリカのテレビ番組があったっけ。そうそう、「ナイトライダー」だ。ナイト財団が開発したキットと呼ばれる人工知能を搭載したスーパーカー、その名もナイト2000が大活躍するアクションドラマで、主演のマイケル・ナイトに演技力は無視してルックスで選ばれたデビット・ハッセルホフが毎回能天気なわざとらしい演技でお茶の間を湧かしたアノ番組だ。

特に最終回でナイト2000がオープンカーに変身し、美女をはべらして遊びに興じるシーンは、えっこんな結末でいいの、と思わず声を失ったものである。

それはともかく、人工知能を搭載するといろいろと面白いことが起こる。まず、運転中に人工知能が話しかけてくるのだ。これはいい、話し相手がいれば居眠り防止にもつながる。さて、どんな会話が成り立つのだろうか。

例えば、酒を飲んでハンドルを握ると、人工知能が「おまえはもう死んでいる」とのたまう。スピードを出しすぎると「今捕まれば簡易裁判で罰金二桁だぜ」とか、交差点では、「もしかすると子どもが飛び出すかもな」などとささやく…

ちょっと待て、人工知能は自動操縦するんじゃなかったっけ。なら、そんな会話は無用ではないか。いやいや、そうではない。人工知能も学ばなくてはならないのだ。あらかじめプログラムされた動作を行うだけなら、人工知能の価値はない。人工知能は、ドライバーとの会話を通じて、そのドライバーにとって理想的なパートナーに進化してゆくのだ。

だから、ドライバーが無能だと、人工知能も無能になってゆく…

だめだ、結局、ドライバーが努力して安全運転をする以外はないようだ。

 

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野生の勘

野生

ネットでニュースに目を通していたら、中高生の七割が努力は報われると信じているというレポートが掲載されていた。

はっきり言おう。努力は平気で人を裏切る。

だが、嘘が女のアクセサリーであるように、裏切りもまた努力のアクセサリーなのだ。だからあまり気にしなくていい。というか、いちいち気にしていたら努力とおつきあいはできなくなる。

そうなのだ。報われるから努力するわけではないのだ。報われるかどうかわからなくても努力する。そう腹をくくらなければ、そもそも努力などしても仕方がない。

ところが、努力は必ず報われると勘違いしている輩が後を絶たない。そういう輩は努力が報われないと陰湿な報復をしたり、誰かに八つ当りしたり、反社会的な行為に及んだり、中には自殺したりする者まで出てくる。

だから、七割もの中高生が努力は報われると信じているというのは、ある意味危険な数値だ。私が教師なら、努力してもダメなときはダメだと教えるのだが、現行の教育指導要綱では、努力の美徳を説くことになっているのだろう。

確かに、受験を控えた学生にとっては努力すれば受かると説くことは意味がある。受験の場合、出題範囲も受験日もあらかじめ決まっているので、容易に対策が立てられるからだ。大学受験くらいなら、病気等のアクシデントを除いて、誰でも努力すればなんとかなるだろう。

それに対し、人生においては、問題の出題範囲も不明なら、出題日も不明だ。そもそも今歩いている道にゴールがあるかどうかすらわからない。もしかすると、その先は崖になっているかもしれないのだ。もしそうなら、努力しても崖に落ちるだけである。

ある意味、社会とは弱肉強食のサバンナのようなところかもしれない。だとすれば、本能とか勘とか、そういった生来の能力がサバイバルの鍵となろう。

努力も大切だが、生物に本来備わっているはずの野生の勘を失わないようにしたい。

 

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