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きびだんご王国 桃太郎伝説

オーケストラの指揮者

フルトベングラー
みなさんはオーケストラの指揮者を見ていて、一体何をやっているのか疑問に思ったことはないだろうか。私は子供の頃からずっと疑問に思っていた。大勢の楽団員の前でひとりだけ客席にお尻を見せている。何やら腕を振り回しているようだが、よくわからない。中には相当滑稽な動きをする指揮者もいるが、オーケストラは淡々と演奏している…

実は、一口に指揮者といってもやっていることは千差万別なのだ。楽器奏者なら、楽譜を見てそこにある音符を音にする。音にする仕方はいろいろだが、基本的に弦楽器なら弓で弦をこするし、管楽器なら管の中に息を吹きかける。とまあ、音楽的なことは置いといて、やっていることは素人にも理解できる。

ところが、指揮者だけはよくわからない。棒を振っているが、楽譜には振り方が書かれているわけではなく、指揮者が自分で工夫しなくてはならない。入門書には拍子の振り方が解説されているが、そんなものを振り続けるほどバカバカしいことはない。結局、何をどう振るかは指揮者個人にまかされているわけだ。

私が観察したところ、指揮者はひとりひとりやっていることがかなり異なる。オーケストラの交通整理をしている者もいれば、司令官のように命令している者もいる。身体で音楽の表情を表現している者もいれば、陶酔している者もいるし、耳に聞こえる音というものを目で見えるように表現して楽団員に示している者もいる。拍子をとっている者もいれば、踊っている者もいるし、楽団員に催眠術をかけている者もいる。

なんと、指揮者の仕事とは、なんでもアリの無法地帯なのだ。だからこそ、面白いのであろう。特に、いわゆる指揮法などというものが確立される前の指揮者が面白い。黎明期の指揮者たちは、自分たちの経験と勘で自由にやっていた。現代の指揮者からみるとテクニックがお粗末かもしれないが、出てくる音楽はまぎれもなく彼らのものであった。

一方、音楽大学に指揮科のある現代では、テクニックこそしっかりしているが、面白みのない指揮者が多くなった気がする。私は指揮科を出ていない指揮者が好きだ。指揮科を出ていない指揮者というと今では少数派だが、かつてはほぼ全ての指揮者がそうだった。昔は指揮者といえば、作曲家かオペラのリハーサル用ピアノ伴奏者を経験した者かに大きく二分されていたのだ。今のように音楽大学の指揮科を卒業してコンクールを受けて… といった流れではなかったのである。

私は、芸術というものは実は学校で学ぶものではないのではないかという気がしている。要するに世間で考えられているほどアカデミックなものではないと思うのだ。小説家も彫刻家も画家も作曲家もおよそ創作に関する芸術は独学でいいのではないだろうか。いや、そもそも学問というものは本来独学があるべき姿なのかもしれない。大学とは何かを教えてもらう場ではなく、自分で学び取る心構えのある者が集まる所ではないだろうか。自分で学び取る限り、大学に在籍しようと、独学であろうと大した違いはないと思う。ただ、大学にいれば、様々な資料がいつでも手の届く所にあるし、疑問を語り合う友や教師が大勢いるという点で有利だが…

しかし、いずれはひとりで学ばなくてはならない時が来る。私も大学を出ているが、本当に大切なことは社会に出てから学んだ。大学で学べることは人生においてはほんの僅かでしかない。

さて、指揮者は創作者か演奏者か。長い間議論され、いまだ決着がつかない問題である。厳密に言えば作曲家こそ創作者であり、指揮者は演奏者にすぎない。だが、やり方によっては指揮者にも創作者の世界に踏み込む余地があろう。

この辺り、目の前の指揮者が音楽というフィールドのどこに立っているのかを見定めるのがコンサートの醍醐味のひとつである。それはすなわち、その指揮者がオーケストラを前に何をしているのかということでもあり、音楽をどう生きているかということでもある。

指揮者というのは、特別な存在なのだ。

 

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お二人の幸せを応援します!

お二人の幸せを応援します!

テレビのワイドショーで岡山出身の俳優の熟年離婚が大きく取り上げられていた。仲のいい夫婦と定評があっただけにショックを受けた人も多いかもしれない。まあ、他人の離婚話などわざわざ電波で流す必要はないと思うが、しかし岡山の印象は確実に悪くなった。観光業にもマイナスの影響が出かねない勢いだ。

そこで、どうすれば離婚を減らすことができるのか知恵を絞ってみよう。断っておくが、面白半分ではない。あくまでも、世の中の人々が幸せでいてくれたらという、ただその一念で離婚対策を考えることにしたまでである。

そもそもなぜ離婚するのか、ということだが、離婚した人々の話を総合すると「こんなはずじゃなかった」という言い訳が多いことに気づく。つまり、「想定外」ということだ。想定外と言えば、昨年起きた東京電力福島原子力発電所における未曾有の大事故が記憶に新しい。東京電力は自分たちの過ちを棚に上げて、何でもかんでも想定外という言い訳で逃げていた。まったく情けない限りだ。

はっきり言おう。離婚経験者には東京電力を批判する資格はない。

5メートルの津波がきても夫婦仲は大丈夫と安心していたところ、想定外の10メートルを越える津波が来て夫婦生活が破綻したというのが大抵の原因だ。つまり、想定さえしておけば防げたのである。離婚を減らすには最悪の事態を想定しておく、というのが大切だ。

アメリカなどでは、タバコの箱に末期癌患者の生々しい臓器の写真が掲載されている。そこまでしなければタバコの販売許可が下りないのだ。そこで、日本でも結婚式場にリスクを警告するポスターを貼ることを法律で義務づければよい。具体的には、鬼のような形相で暴力をふるう、返り血を浴びた夫の写真とか、姑にいじめられて泣き崩れる、怨念のゾンビと化した新妻の写真、あるいは長年家族のために働いてきたのに、定年を迎えた途端妻に捨てられ、夕暮れの公園でブランコにひとり腰を下ろし、何かに取り憑かれたように遠くを見つめている男性の写真といったものだ。こうした写真を大きなポスターにして結婚式場に貼り付けることを義務づければよい。これで、「こんなはずじゃなかった」という言い訳は通用しなくなるだろう。

大体ブライダル産業は、結婚の明るい面ばかり強調し、暗黒面についてはひた隠しに隠している。これはフェアではない。タバコによって不幸になる人も多いが、結婚によって不幸になる人もそれに劣らずかなりの数に上る。タバコ産業だけ規制するというのはどう考えても不公平である。ある意味詐欺まがいのブライダル産業に正義の鉄槌を下す時がきたのだ。

次に、結婚を免許制にしてしまおう。結婚志願者は結婚教習所に通って結婚生活に必要な常識や技能を学ぶことになる。家事、育児、近所付き合いなど、様々なトラブルに対処する能力を身につけるのだ。私立探偵にも講師として登壇してもらい、様々な浮気調査の事例を解説していただこう。

それでも結婚したいという奇特な者は、最終の筆記試験を受け、合格すれば結婚免許証を受け取ることができる。もちろん有料だ。そして、3年ごとに免許の更新がある。これをやれば、消費税など上げなくても十分国庫が潤うではないか。幸せな夫婦が増えて、しかも国の財政が豊かになる。実に優れた仕組みである。

ちなみに、ゴールド免許の夫婦は30分の講義ビデオを見るだけで更新できるが、喧嘩が絶えない夫婦は長時間の講習を受けなくてはならない。別居などは一発免停だ。

そして、婚姻届を役所に出す際には、強制保険に加入させる。要するに自賠責のようなもので、夫婦間のトラブルによる器物破損や怪我を補償するのだ。それ以外は各保険会社による任意保険で対処しよう。つまり、「離婚保険」だ。離婚しても相手に経済力がない場合は慰謝料を受け取ることができない。また、泥沼化した場合の訴訟費用もかなりの額になる。これらを補償するのが離婚保険というわけである。

若い人が勢いで結婚する場合や芸能人は離婚のリスクが高いので、保険料は高く設定する。離婚経験者も当然高くなる。一方、晩婚の人は安く設定していいだろう。死別の際に消滅する掛け捨てや、積み立て貯蓄タイプなどいろいろ用意すればいい。

私が保険外交員なら、全国の結婚式場に出かけて新郎新婦に離婚保険を売りまくる。え? そんな保険は売りにくいだろうって!? 大丈夫、名前を工夫すれば心配ない。昔から保険会社がやっている手口ではないか。例えば「堂々結婚生活終身タイプ」とか「愛情フォーエヴァー」とか、あるいは今はやりの「絆」といったネーミングでばっちりだ。後は好感度の高い芸能人を起用して大々的にCMを打つ。そうだ、CMソングも耳に残りやすいものにしよう。「♪サルとアヒルが力を合わせてみんなの幸せを~、招かザルダック~♪」といった具合だ。キャッチコピーはいかにも親切そうに、「お二人の幸せを応援します!」がいいだろう。これで決まりだな。グッジョブ!!

とまあ、ここまでやれば離婚するカップルはかなり減るのではないだろうか。

あるいは、誰も結婚しなくなるかもしれないが…

 

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ホタルの住む脳でいたい

ホタルの光

先日、岡山の市街地を流れる西川という小さな川にホタルを定着させようという運動を展開したことがある人物に出会った。西川というのは、岡山県三大河川の一つである旭川の合同堰から水を取り入れた、もともと農業用の用水である。岡山の中心街を流れている。

で、成果はどうだったのかと尋ねると、うまくいかなかったそうである。この人物の話では、なんでも川が街の中心部にあり、夜もネオンの明かりなどで照らされ続けるため、ホタルの棲息に適さなかったとのことである。

ネオンがどの程度障害になるかは私にはよくわからないが、確かに市内中心部にホタルというのは無理がありそうだ。そもそも西川は護岸工事がされている区間が大半を占める。ここでいうホタルとはゲンジボタルかヘイケボタルのことだろうから、幼虫は川の中でカワニナを食べて育つが、蛹になるのは川岸の土の中なので、護岸工事はこれらのホタルにとって致命的である。まさか、こうしたホタルの生態を知らずに西川に放流したのだろうか。だとしたら無謀と言わざるを得ない。

ところで、幼虫は川の中で、と書いたが、これは驚くべきことである。というのも、世界中でホタルは2000種ほどいるらしいが、その中で幼虫が水中で過ごすのはほんのわずかだ。たまたまその内の数種類が日本に集中しているのだ。つまり、ゲンジボタルとヘイケボタルなどであり、これらは特殊なケースなのだ。

ちなみに、ヒメボタルというどちらかというとマイナーなホタルがいて、こちらの幼虫は陸生で、カタツムリなどを食べている。が、実はこれこそがホタルの国際標準なのだ。ホタルの幼虫は陸上、これが常識であり、ゲンジボタルやヘイケボタルのように幼虫が水中というのは非常識なのである。ここでも竹村健一が言うように、日本の常識は世界の非常識という構図が確かめられた。

それはともかく、ホタルの放つ光は美しい。日本の初夏に欠かせない風物詩である。しかし、実は幼虫も光るということをご存知だろうか。そうなのだ。幼虫も光るのである。だから、その気になれば冬だってホタルの光が楽しめるのだが、なぜか冬の風物詩にはならない。ちなみに蛹も流行に遅れまいと発光する。ただし土中なのでなんの効果があるのかよくわからない。また、成虫になっても発光しない種類もある。

で、話を元に戻すが、先の人物はホタルが戻ってくるほどきれいな川を再生したいという運動をしていたわけだ。護岸工事をした川はもはや川ではなく単なる水路だというのが私の見解だが、それでも汚い水が流れるよりはきれいな水が流れた方がいいに決まっている。実際、旭川と西川の水質は、私が子供の頃よりも良くなっているようだ。ただし、それよりもっと前、私の父が子供だった頃には遠く及ばない。父は子供の頃、西川でよく泳いで遊んだと言っていた。私は誰かが泳いでいるのを見たことがない。今は泳ぐことなどありえない有様だ。

都市化とは脳化だと養老孟司は言う。つまり、都市とはヒトの脳の中で考えたことが具現化された姿に他ならないという考え方だ。だとすると、我々の脳の中からホタルのような懐かしい仲間が消えつつあるということを意味していないだろうか。果たして私の脳の中はどうだろう。幸い、近代的な大都会にはほど遠い、かなり時代遅れの風景が残っているようだ。

だからだろう、よく古いと言われる。

 

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君が代

さざれ石

今日は建国記念日ということで朝から街宣車が「君が代」を流している。気持ちはわからないでもないが、朝の珈琲タイムくらい静かにしておいてもらいたいものだ。

さて、何かと物議を醸している「君が代」だが、みんな意味を知っているのだろうか。現代語訳すると「あなたの年齢」となる。

「君が代」が登場する最も古い文献は紀貫之(きのつらゆき)らの撰による『古今和歌集』(十世紀初頭)とされている。その巻の七「賀歌(がのうた)」の部のはじめに、題しらず、詠みびとしらずとして「我君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある。これが時代とともに変形し、「君が代は千代に八千代に~」となった。

ちなみに、『古今和歌集』の「賀歌」の部には、光孝天皇が僧正遍昭の七十歳を祝って贈った「斯くしつつとにも斯にも長らへて君が八千代に逢ふ由もがな」という歌がある。天皇が僧侶を「君」と呼んでいることから、この「君」という言葉に天皇という意味などないことは明白である。「君」とは誰に使ってもよい二人称なのだ。つまり「君が代」の「君」を天皇としたのは明治政府のでっち上げにすぎない。

では、「君が代」を訳してみよう。

君が代は:  あなたの齢(よわい)は
千代に八千代に:  ずっとずっといつまでも
さざれ石の : 細かい石が
巌となりて: おおきな岩となって
苔のむすまで : 苔が生えるまで(長生きしてくださいね)

つまり、年長者に対する、これからもずっと長生きしてくださいね、という祝い歌である。昔は四十歳、五十歳といった区切りのよい歳に祝いの歌を贈る習慣があり、「君が代」はその年寿を祝う歌だったのだ。

細かい石がくっついて、いつしか大きな岩となり、さらに表面に苔がびっしり生えるまで、ということだが、随分長い年月を要するだろう。ひょっとすると両生類が爬虫類に進化するほどの年月かもしれない。そんなに長生きできるか、とツッコミを入れたくなるほどだが、当時の人の豊かな感性の表れである。

この歌は『古今和歌集』以後も様々な文献に現れる。『新撰和歌集』『和漢朗詠集』などだ。さらに江戸時代になると浄瑠璃(じょうるり)、小唄、長唄などにも取り入れられていく。まあ、おめでたい歌だから人気があったのだろう。

そして、明治維新の後、イギリスの軍楽隊長だったJ.W.フェントンから国歌の必要性を説かれた薩摩藩砲兵隊長の大山弥助(後の元帥陸軍大将大山巌)は、当時薩摩で歌われていた薩摩琵琶歌『蓬萊山(ほうらいさん)』の中から「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼した。が、曲想が洋風でなじめず、宮内省雅楽課に再度依頼。結局、林広守が作曲し直し、F.エッケルトが編曲して現在の形になったと伝えられている。

明治維新の原動力であった薩摩の人々が明治政府の中枢を占めていたために、薩摩の歌が国歌になったのであろう。もし、備前岡山の侍たちが明治維新を主導していれば、「わたしゃ備前の岡山育ち、米のなる木をまだ知らぬ~」という歌が国歌になっていたかもしれない。

ところで、「君が代」はいかにもアジアンテイストでなかなか面白いが、一カ所だけ致命的な所がある。それは「さざれ石の」という箇所だ。「さざれ石」で一つの単語なのに、この曲では「さざれ」と「石」の間にフレーズの区切りが入ってしまっている。だから、「さざれ」と「石」の間で息継ぎをして歌う人が後を絶たない。しかし、言葉の意味を考えると、「さざれ」と「石」の間で息継ぎは厳禁である。「さざれ石」と一息で歌わなくてはならない。が、この箇所に変なフレーズの切れ目があるために歌いづらいことこの上ないのだ。できれば作曲し直すか、歌詞を変更したいところだが、いまさらどうにもならないだろう。

それはともかく、「君が代」の「君」を天皇とした明治政府によって「君が代」は天皇を中心とする帝国主義国家の運営に利用された。第二次世界大戦後、今度は「君」とは国民を指すと定義が改められたそうだが、もともと誰を指してもよい言葉なので、あれこれ議論すること自体不毛だ。

にもかかわらず、毎年何かと物議を醸し続けている。裁判沙汰になっている事例も少なくない。恐らく、「君が代」が単なる年寿の祝い歌だという認識が広まっていないからではないだろうか。ちゃんと認識されていれば、そもそも争点などないのだから問題など起こりそうもないではないか。もっとも、帝国主義に利用された曲という事実が許せないという人々がいることはいかんともしがたいが…

とにかく、小学校で英語なんか教える時間があれば、もっと歴史を教えた方がよいと思うのは私だけだろうか。
(写真は京都・下鴨神社のさざれ石)

 

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ナンバーワン

ピカソ作『ドラ・マールの肖像』

私が嫌いな言葉に「オンリーワン」というのがある。確かジャニーズ所属の歌がヘタクソな中年アイドルグループが歌ったヒット曲の影響で信者が増えた言葉だ。他人と競争なんかしなくていい、自分は世界にたったひとりの存在なんだから、それだけで意味がある。自分にしかできないことをせいいっぱいやればいい。それが個性だ。個性を尊重して伸ばしてあげよう。そんな風潮が一時我が国を席巻した。

はっきり言おう。本当に価値があるのは「ナンバーワン」だ。

競争のないところに進歩はない。我々が現在までのところ進化の頂点に立っているのも途方もない競争に勝ち残ったからに他ならない。生物は競争して生き残ってきたのだ。競争は生命が背負う宿命といってもよい。

そもそも、我々が誕生した陰では、おびただしい数の精子が競争に敗れて死滅している。たったひとつの競争に勝った精子が卵子と受精してヒトになったのだ。つまり、生まれてきただけで既に我々は勝者なのだ。確率にするとものすごく低い数字になるだろう。だからこそ、この世に生ある者は全て勝者であり、生き続ける限り、競争に勝ち続けなくてはならないのだ。

我が国では毎年3万人もの人が自殺するが、こういう人たちは自分たちが勝者だということに気づいていないらしい。生まれてきただけで既に勝者なのだから、もっと自信を持てばいいのに…

とある小学校の運動会では、敗者を作らないために全員手をつないで同時にゴールさせたりするところもあると聞く。中学・高校でも模擬試験の学校別の成績を公表することに頑強に反対するところが多いらしい。

一体、この国の教育者たちは「切磋琢磨」という美しい日本語を忘れたのだろうか。

スポーツでも学力でも大いに競争すればよいではないか。負けた者は悔しいかもしれない。だが、だからこそ精一杯努力するのではないのか。悔しさをバネにして、後に大成した人物は山ほどいる。

たとえ負けてもベストを尽くせば何かしら得るものがあるはずだ。ベストを尽くした敗者なら勝つことの意味がよくわかる。そして「ナンバーワン」への道を再び歩き出す…

「オンリーワン」になることは簡単だ。例えば、誰にも理解できない言語を作ってひとりでしゃべればいい。世界にたったひとりだけが話す言語だ。その人物は「オンリーワン」だが、誰からも相手にされないだろう。これはギャグではなく、「オンリーワン」の本質を物語っている。「オンリーワン」とはこの世でたったひとつ、つまり共通認識とか仲間とかそんな繋がりのないことを意味する。「独創」と言い換えれば少しはましに聞こえるが、やはり理解できないという点では同じだ。本来、独創的などということはありえない。例えばピカソの絵が独創的だと評したところで、多くの人々に理解されている以上、何らかの共通認識の上に立つ芸術である。もし、本当に独創的なら誰からも理解されず、美術館に飾られることもないはずだ。

脳科学者の言を待つまでもなく、我々の脳はみな基本的に同じだ。「オンリーワン」などではない。アインシュタインの脳も私の脳もヒトとして同じなのだ。結局個性というのは養老孟司が言っているように「顔」なのである。ひとりひとり顔が異なるわけだから、既に十分個性的だ。それ以上、必死になって個性的であろうともがく必要などない。どんなに個性的であろうとしても、どんなに独創的であろうとしても、世の中で認められるためには人類の共通認識の上に立つ以外ないのである。

私はこの共通認識の上で「ナンバーワン」になった人々に対し、賞賛の念を禁じ得ない。

 

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