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コロンブスの卵

コロンブスの卵

最近読んだ本にスティーブ・ジョブズを大して評価しない内容のものがあった。斬新である。世の中、猫も杓子も故アップル創業者を絶賛している中でそのような本を書くとはなかなか気骨があるではないか。もっとも、ただのひねくれ者かもしれないが…

で、読んでみたところ、少々がっかりした。もう少し骨のある論理を展開しているのかと思いきや、アップルの革新的な製品の数々に「元々あった技術を組み合わせたにすぎない」といった視点から冷や水を浴びせているだけだった。内容に問題はない。全くその通りだ。アップルの製品に搭載されている技術は彼らが発明したものではない。すでに存在していた技術を寄せ集めたにすぎない。

だが、条件は他の企業にとっても同じだったのだ。すでに存在していた技術で作れるわけだから誰が作ってもよかった。ところが、誰も作れなかった。ただアップルだけが世界に先んじて作れたのはなぜだろう。

要するに、コロンブスの卵である。何かを発明したわけではないが、他人とは違う発想を得たのだ。それにケチをつけたところで、コロンブスの卵にケチをつけた者と同様に笑われるだけである。

さて、我々の周りにもコロンブスの卵はころがっていないだろうか。恐らくころがっている。新型のきびだんごのヒントも多分その辺りにあるだろう。いったん完成すると、なんだそんなものは我々にも作れるという声が聞こえてくるかもしれないが、最初に思いつくのが大変なのだ。発明ではないが、革命ではある。

とはいえ、なかなか思いつかない。もっとも、そう簡単に思いつくようなら、そもそも偉業でもなんでもないな。

 

追記: コロンブスの卵もいいが、つるの玉子もいい。

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生レバー ?

生レバーに興味はない

今朝ニュースを見ていたら、今日から生レバーの提供が法律で禁止されるらしく、昨晩は最後の生レバーを食べようとする大勢の人で全国の焼き肉屋さんが賑わったらしい。いわゆる駆け込み需要というやつだ。

だが、はっきり言っておく。私は生レバーなど何の興味もない。

そもそもレバーと言えば肝臓ではないか。肝臓とは、身体中の毒素を処理する臓器で、いわば廃棄物処理場のようなところだ。つまり、身体中の毒素が集まってくるところである。そんなものを食べて身体にいいはずがないと私は思うのだが、どうなんだろう。

とにかく、私はレバーは身体に悪いと信じているので全く食べない。レバニラ炒めすら食べないのだ。だから、世の中が生レバーで大騒ぎになっている状況が全然理解できない。

私の場合、牛だけではない。鳥でも、他のどんな動物でも、肝臓が廃棄物処理場である限り食べる気がしないのだ。

というわけで、私には何のインパクトもない今回の法改正だが、世間では随分悲しい思いをしている人がいるみたいだ。そういえば、とある焼肉屋では、なんと生レバーの遺影まで飾っているという。こうなるともはや病気ではないだろうか。どうせなら、生レバーを食べて食中毒で死んだ人の遺影を飾ってほしい。生レバーの犠牲者を拝みながら食べてこそ、生レバーの醍醐味が味わえるのではないだろうか。私が店のオーナーならそうするのだが、この店のオーナーにはそこまでの発想がなかったようだ。

おっと、こんなことばかり書いていると全国の生レバー愛好家の方々からバッシングを受けかねない。今日はこの辺りでやめておこう。

 

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Audible Audio Edition

紙の書籍か電子媒体か

今日、アマゾンUSAで洋書を物色していたところ、Audible Audio Edition というものに出くわした。要するに本の内容を朗読した音声データの提供である。ただし、CDではなく、あくまでも音声データによるダウンロード販売だ。

つまり、最近では紙媒体の書籍の他に電子書籍、朗読CD版、そしてAudible Audio Edition と、ひとつの出版物に四つの形態が揃っていたりするのだ。もちろん、全ての著作に対してではなく、今のところ売れ筋の作品に限られているようだが。

こうなると、どれを買おうか悩んでしまう。同じ書籍でも朗読音源があれば、例えば、車の運転中にも聞くことができるわけで、ビジネス書などを朗読音源で購入しておけば、出勤の途中でも内容を把握することが容易だ。

一方、iPad などを使える環境にあれば電子書籍もいいだろう。最近ではディスプレイのクオリティも上がり、それほど目も疲れないと聞く。なにより、朗読音声といい、電子書籍といい、重量がゼロという点が魅力だ。まとめて十数冊買っても重さがゼロというのは大変便利ではある。

う~む、悩む。私のように赤線を弾きながら読書をする者には、やはり紙媒体かなという気がするのだが… しかし、重さゼロで大量に持ち運べるという点を考えると… 悩ましいところだ。

おそらく、私の場合、最終的には両方買ってしまう可能性が高い。つまり、自宅では紙媒体を使い、出掛けるときは朗読音源か電子書籍で携帯するというわけだ。だが、こうなると出版社の思うつぼではないか。

ここはひとつ、紙媒体を購入した者には安く電子書籍や朗読音源が購入できる特典を付けてもらうしかない。今のところそんな特典はアマゾンにはないようだが、なんとかならないだろうか。

 

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丸暗記

丸暗記の効用

最近、丸暗記の効能を再評価している。

子供の頃から学校でも塾でも丸暗記はよくないと頭に叩き込まれてきた。最近の学習指導要綱はよく知らないが、かつては丸暗記と言えばダメな学習法と相場が決まっていた。当時の参考書などを開いてみても丸暗記では力はつかないと書いてある。

しかし、ひょっとして丸暗記こそ学問の王道ではないかと私は認識を新たにしているところだ。

きっかけはとあるピアニストの書籍だった。この中でリストの練習法について言及した著者は、推理小説を読みながらピアノを練習すると述べている。要するに、本でも読みながら練習しろというのがリストの教えなのだが、これは何も考えずに指だけ動かせという指示でもある。全く頭を使わずに無意識の状態で完璧に弾けるようになるまで練習しろということだ。

このリストの教えは前から知ってはいたが、私はあまり信用していなかった。だから、本当にその教え通りに練習して一流のプロになったという人の話を知って驚いたわけだ。大抵の先生は、「技術と音楽を切り離してはいけない。どんな技術練習でも音楽性を伴わなくてはならない」というだろう。至極真っ当な意見だ。しかし、リストの教えは正反対であり、私は長い間彼の意見に耳を貸さなかった。機械的な練習というものに懐疑的だったのだ。

だが、よく考えてみるとリストの教えは理にかなっている。考えなくても自動的に演奏できるまでに技術的な課題を克服しておけば、安心して頭を音楽に没頭できるというわけだ。この、考えなくてもというのは、要するに無意識にできるという意味である。これは何も音楽に限ったことではない。スポーツでも、語学でも、美術でも、おそらくあらゆる分野で応用可能な教えではないだろうか。

例えば、語学なら、基本的な例文などは無意識に口をついて出てくるまで暗唱しておくべきだろう。実際の会話でいちいち文法や単語を組み立てていたらとてもではないが間に合わない。考えるべきは話の内容であり、単語や語法は無意識に出てくるようでなくては使い物にならないはずだ。

算数でも我々は九九を丸暗記したではないか。インドでは19 x 19 まで暗記するらしいが、とにかく基本的な計算を暗記しているおかげでどれだけ日常生活が円滑に行われているかは言うまでもない。九九の丸暗記は芸術的でも数学的でもないかもしれないが、とにかく実用的である。

考えることの重要性はいくら強調してもしすぎることはないが、その前提として基礎的な知識や技能は無意識に活用できるまで頭と身体に叩き込んでおくべきである。機械的な暗記と言えば聞こえは悪いが、無意識のレベルにおける記憶の定着と言えば少しは理解が得られるのではないだろうか。

どうも、丸暗記という言葉がマイナスのイメージを持っているために誤解されているようだが、案外、丸暗記こそ無限の可能性を引き出す力の源かもしれない。

 

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整理術

整理術

私はこれまでいろいろな整理術関連の書籍に目を通してきた。そこで推奨されている様々なファイリング法やスクラップ法などをあれこれ試してみた。そうして10年以上経過したわけだが、ついに私にぴったりの整理法にたどり着いた。

それは、もう二度と整理しない、という方法だ。

とにかく整理すれば、かならず書類の山ができる。どんなにがんばって整理しても最後には収拾がつかなくなるのだ。実際、私の書斎にはかなり厚めのリングファイルが時系列に並んでおり、その数は数十冊を超える。途中からファイリングをやめて封筒で管理するようになったため、今度はおびただしい数の封筒が書棚にぎっしり並んでいる始末だ。

ところが、こうして蓄えた資料だが、ここ10年以上触れていないものが大半である。ということは、無駄に部屋のスペースを占領しているだけではないのか。そういう疑問で頭が一杯になっていたわけだが、昨年あたりから徐々に整理する習慣を無くしてゆき、とうとう最近になって全く整理しないという境地に達したのである。

そもそも、どんなに丁寧に資料を整理したところで、いざという時に頭に浮かんでこなければ活用のしようがない。仮に全てをデジタル化してクラウドに上げたとしても、適切なキーワードが見つからなければ検索が機能しない。結局のところ、データは自分の頭の中で整理しておくしかないというのが私の結論だ。

まず、資料を作らず、必要事項は書籍に直接書き込む。何度も何度も参照した書籍なら該当箇所などすぐに探し出せる。線を引いたり書き込んだりしてエピソード記憶にしっかり収まっているからだ。そうなるとデジタルの検索機能など不要である。逆に言えば、必要な資料がどの書籍のどの辺りに書いてあったか思い出せないようなら、その資料は自分の頭に入っていないということであり、活用できなくて当然だと割り切ればよい。活用したければ頭に叩き込んでおけばよいのだ。

というわけで、私はいかに整理するかではなく、いかに頭に叩き込むかに労力をシフトした。資料作りやファイリングなどを作成する時間があれば、一冊でも多くの参考文献に当たった方がよいという発想だ。しかも、本はまるまる一冊読んだりしない。目次を見た後は必要な箇所だけ読んで次の本へ移る。一冊を精読する時間があったら、五冊でも十冊でも手を広げた方が効率がいい。本は必要な箇所だけを読む。このやり方は、なんのことはない、読むときに既に整理しているわけだ。いままでは読んでから整理していたのだが、今は読む前に整理を始め、読みながら整理し終えている。そして、読後にレポートやファイルは作らない。

とにかく、必要な箇所だけ記憶しておけばよいのだから、話は単純だ。そして、必要な箇所は折に触れて何度も読み返すことになる。結果として、必要な箇所だけは通算で精読したことになるわけだ。もし、何度も書棚からひっぱってくることがないようなら、その本は自分にとって大して価値のない本だったということになる。

こうして、本当に大切な本は、それ自体が資料でありファイルとなりうるのだ。そして、何度も参照することにより、反復作業によって記憶に定着してゆく。

慣れてくると、この方が時間が有効に使えて気分がいい。もう整理術とはおさらばだ。

 

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