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苦い思い出

芽

今日、街をぶらついていて、過去に苦い思いをした女性とよく似た女性とすれちがった。もう完全に忘れていたつもりだったのだが、ほんの一瞬すれちがっただけで走馬灯のように思い出が脳裏に浮かんできた。さすがに心を乱されることはなかったが、一瞬とはいえ、心を持ち去られたことは事実だ。不覚である。私もまだまだ未熟ということかもしれない。

さて、その苦い思い出の女性だが、この女性はどういうわけか私との相性が最悪だった。どれくらい最悪だったかというと、同じ日本人同士なのに言葉が通じないのだ。私はこれでも言葉は普段から磨いているつもりだし、また、読書量も年間100冊から200冊の間をキープしている。これでも学生時代は生徒会長だったし、人前で話をしたりするのは問題ない。むしろ得意な方だ。

ところが、この女性とは恐ろしいほど話が弾まなかった。どれくらい弾まなかったかというと、地面に投げたボールがことごとくパンクしてそのまま地べたに張り付いてしまう様子を思い浮かべてほしい。まさにそのような状態だったのだ。

例を挙げると、私が「駐車場がいっぱいだったので、バカみたいに遠いところに駐車した」などと言うと、「バカとは何よ、失礼ね」と言って怒りだすのだ。別に彼女をバカにしたわけではない。「ものすごく」という意味で「バカみたいに」と言っただけである。確かに奇麗な日本語ではないが、日常会話として誰でも使ってる表現だと思う。だが、彼女は腹を立てるのだ。

とにかく、「バカ」という言葉に異常なほど反応する人だった。第三者に対しても、社会に対しても、自然現象に関しても、とにかく「とてつもなく」とか「とんでもなく」という意味で「バカみたいに」という言葉を口にすると、なぜか自分が侮辱されたと勘違いして怒りだす人だったのだ。「今日は努力がことごとく裏目に出てバカみたいに疲れた一日だった」と私が独り言を言っただけで、機嫌を害してむっとするのだからコミュニケーションは至難を極めた。恐らく、過去に周囲からバカにされたといった暗い経験がトラウマになった人ではなかったかと思う。そう思って辛抱強く接していたのだが、どうにもならなかった。

さらに、軽妙なジョークの類いが全く通じなかった。誕生日を迎えて、「今年もお互いまたひとつ歳をとったね」などと言おうものなら、しばらくして怒りのメールが送信されてくる。「失礼な人ですね(怒)」といった具合だ。

私としてはできる限り誠実に対応したつもりだったが、当然のことながら彼女とは疎遠になった。もうかなり昔のことである。それが、今日たまたま似た人物とすれちがったことで思い出す羽目になってしまったのだ。

この話に救いはない。ただ、教訓としては、世の中どうしようもなく相性の悪い相手というものがいるということだ。そういう相手を前にすると、思いやりも誠実さもユーモアも努力も何一つ意味をなさないということだ。

立派な種を植えても、場所が悪ければ芽を出さないように、人生どこかで見切りをつけて再出発することが必要だ。私という人間の芽が出る場所がきっとどこかにある。

 

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コロンブスの卵

コロンブスの卵

最近読んだ本にスティーブ・ジョブズを大して評価しない内容のものがあった。斬新である。世の中、猫も杓子も故アップル創業者を絶賛している中でそのような本を書くとはなかなか気骨があるではないか。もっとも、ただのひねくれ者かもしれないが…

で、読んでみたところ、少々がっかりした。もう少し骨のある論理を展開しているのかと思いきや、アップルの革新的な製品の数々に「元々あった技術を組み合わせたにすぎない」といった視点から冷や水を浴びせているだけだった。内容に問題はない。全くその通りだ。アップルの製品に搭載されている技術は彼らが発明したものではない。すでに存在していた技術を寄せ集めたにすぎない。

だが、条件は他の企業にとっても同じだったのだ。すでに存在していた技術で作れるわけだから誰が作ってもよかった。ところが、誰も作れなかった。ただアップルだけが世界に先んじて作れたのはなぜだろう。

要するに、コロンブスの卵である。何かを発明したわけではないが、他人とは違う発想を得たのだ。それにケチをつけたところで、コロンブスの卵にケチをつけた者と同様に笑われるだけである。

さて、我々の周りにもコロンブスの卵はころがっていないだろうか。恐らくころがっている。新型のきびだんごのヒントも多分その辺りにあるだろう。いったん完成すると、なんだそんなものは我々にも作れるという声が聞こえてくるかもしれないが、最初に思いつくのが大変なのだ。発明ではないが、革命ではある。

とはいえ、なかなか思いつかない。もっとも、そう簡単に思いつくようなら、そもそも偉業でもなんでもないな。

 

追記: コロンブスの卵もいいが、つるの玉子もいい。

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生レバー ?

生レバーに興味はない

今朝ニュースを見ていたら、今日から生レバーの提供が法律で禁止されるらしく、昨晩は最後の生レバーを食べようとする大勢の人で全国の焼き肉屋さんが賑わったらしい。いわゆる駆け込み需要というやつだ。

だが、はっきり言っておく。私は生レバーなど何の興味もない。

そもそもレバーと言えば肝臓ではないか。肝臓とは、身体中の毒素を処理する臓器で、いわば廃棄物処理場のようなところだ。つまり、身体中の毒素が集まってくるところである。そんなものを食べて身体にいいはずがないと私は思うのだが、どうなんだろう。

とにかく、私はレバーは身体に悪いと信じているので全く食べない。レバニラ炒めすら食べないのだ。だから、世の中が生レバーで大騒ぎになっている状況が全然理解できない。

私の場合、牛だけではない。鳥でも、他のどんな動物でも、肝臓が廃棄物処理場である限り食べる気がしないのだ。

というわけで、私には何のインパクトもない今回の法改正だが、世間では随分悲しい思いをしている人がいるみたいだ。そういえば、とある焼肉屋では、なんと生レバーの遺影まで飾っているという。こうなるともはや病気ではないだろうか。どうせなら、生レバーを食べて食中毒で死んだ人の遺影を飾ってほしい。生レバーの犠牲者を拝みながら食べてこそ、生レバーの醍醐味が味わえるのではないだろうか。私が店のオーナーならそうするのだが、この店のオーナーにはそこまでの発想がなかったようだ。

おっと、こんなことばかり書いていると全国の生レバー愛好家の方々からバッシングを受けかねない。今日はこの辺りでやめておこう。

 

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Audible Audio Edition

紙の書籍か電子媒体か

今日、アマゾンUSAで洋書を物色していたところ、Audible Audio Edition というものに出くわした。要するに本の内容を朗読した音声データの提供である。ただし、CDではなく、あくまでも音声データによるダウンロード販売だ。

つまり、最近では紙媒体の書籍の他に電子書籍、朗読CD版、そしてAudible Audio Edition と、ひとつの出版物に四つの形態が揃っていたりするのだ。もちろん、全ての著作に対してではなく、今のところ売れ筋の作品に限られているようだが。

こうなると、どれを買おうか悩んでしまう。同じ書籍でも朗読音源があれば、例えば、車の運転中にも聞くことができるわけで、ビジネス書などを朗読音源で購入しておけば、出勤の途中でも内容を把握することが容易だ。

一方、iPad などを使える環境にあれば電子書籍もいいだろう。最近ではディスプレイのクオリティも上がり、それほど目も疲れないと聞く。なにより、朗読音声といい、電子書籍といい、重量がゼロという点が魅力だ。まとめて十数冊買っても重さがゼロというのは大変便利ではある。

う~む、悩む。私のように赤線を弾きながら読書をする者には、やはり紙媒体かなという気がするのだが… しかし、重さゼロで大量に持ち運べるという点を考えると… 悩ましいところだ。

おそらく、私の場合、最終的には両方買ってしまう可能性が高い。つまり、自宅では紙媒体を使い、出掛けるときは朗読音源か電子書籍で携帯するというわけだ。だが、こうなると出版社の思うつぼではないか。

ここはひとつ、紙媒体を購入した者には安く電子書籍や朗読音源が購入できる特典を付けてもらうしかない。今のところそんな特典はアマゾンにはないようだが、なんとかならないだろうか。

 

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丸暗記

丸暗記の効用

最近、丸暗記の効能を再評価している。

子供の頃から学校でも塾でも丸暗記はよくないと頭に叩き込まれてきた。最近の学習指導要綱はよく知らないが、かつては丸暗記と言えばダメな学習法と相場が決まっていた。当時の参考書などを開いてみても丸暗記では力はつかないと書いてある。

しかし、ひょっとして丸暗記こそ学問の王道ではないかと私は認識を新たにしているところだ。

きっかけはとあるピアニストの書籍だった。この中でリストの練習法について言及した著者は、推理小説を読みながらピアノを練習すると述べている。要するに、本でも読みながら練習しろというのがリストの教えなのだが、これは何も考えずに指だけ動かせという指示でもある。全く頭を使わずに無意識の状態で完璧に弾けるようになるまで練習しろということだ。

このリストの教えは前から知ってはいたが、私はあまり信用していなかった。だから、本当にその教え通りに練習して一流のプロになったという人の話を知って驚いたわけだ。大抵の先生は、「技術と音楽を切り離してはいけない。どんな技術練習でも音楽性を伴わなくてはならない」というだろう。至極真っ当な意見だ。しかし、リストの教えは正反対であり、私は長い間彼の意見に耳を貸さなかった。機械的な練習というものに懐疑的だったのだ。

だが、よく考えてみるとリストの教えは理にかなっている。考えなくても自動的に演奏できるまでに技術的な課題を克服しておけば、安心して頭を音楽に没頭できるというわけだ。この、考えなくてもというのは、要するに無意識にできるという意味である。これは何も音楽に限ったことではない。スポーツでも、語学でも、美術でも、おそらくあらゆる分野で応用可能な教えではないだろうか。

例えば、語学なら、基本的な例文などは無意識に口をついて出てくるまで暗唱しておくべきだろう。実際の会話でいちいち文法や単語を組み立てていたらとてもではないが間に合わない。考えるべきは話の内容であり、単語や語法は無意識に出てくるようでなくては使い物にならないはずだ。

算数でも我々は九九を丸暗記したではないか。インドでは19 x 19 まで暗記するらしいが、とにかく基本的な計算を暗記しているおかげでどれだけ日常生活が円滑に行われているかは言うまでもない。九九の丸暗記は芸術的でも数学的でもないかもしれないが、とにかく実用的である。

考えることの重要性はいくら強調してもしすぎることはないが、その前提として基礎的な知識や技能は無意識に活用できるまで頭と身体に叩き込んでおくべきである。機械的な暗記と言えば聞こえは悪いが、無意識のレベルにおける記憶の定着と言えば少しは理解が得られるのではないだろうか。

どうも、丸暗記という言葉がマイナスのイメージを持っているために誤解されているようだが、案外、丸暗記こそ無限の可能性を引き出す力の源かもしれない。

 

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