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きびだんご王国 桃太郎伝説

一杯の森林浴

森林浴

いつも飲んでいるお茶が切れてしまった。さっそくネットで注文したのだが、届くまでまだ二、三日かかるようだ。それまでしばらく寂しい思いをしそうである。

私がいつも飲んでいるお茶とは、高知県いの市の山茶である。いわゆる釜炒り製法のお茶で、中国茶のような外見だが、これがなかなか風味が豊かで美味しいのだ。有機無農薬という点もうれしい。値段は高めだが、それだけの価値はある。

で、これを切らした後、間に合わせに自宅にあったティーパックのお茶を淹れてみた。ペットボトルにもなっている普及茶だ。するとどうだろう、あまりのまずさに飲めないではないか。これは大げさではなく、本当に飲めないのだ。まず、香りがおかしい。なんだかお茶漬け海苔のような匂いがする。おそらく何かの香料だろう。味にも深みはなく、飲んでいて気持ちが悪くなった。

なんということだ。高級茶を飲むようになる前は、あれほど飲んでいたペットボトルやティーパックのお茶がこれほどまずかったとは。いったん高級茶を飲み始めるともはや後戻りはできないようだ。とにかく香りといい味わいといい、全く別物である。

ちなみに、高知県いの市のお茶の他にもいろいろと好きなお茶はあって、例えば、静岡県のお茶も好きである。特に浜松市の天竜川上流のお茶や静岡市の安倍川上流のお茶が美味しい。本当は、全国のお茶をいろいろと飲み比べてみたいのだが、いかんせん予算がないため、気に入ったお茶をローテーションで飲んでいる。そのうち未知のお茶にも手を伸ばしてみたいものである。

とにかく、お茶の世界は広くて深い。別に極めようと思っているわけではないが、やはり日本人に生まれたからには、日本茶を満喫しようではないか。ちょっと値段が高くても本当に価値のあるお茶を飲めば、十分心が満たされる。

私の感覚では、日本茶というのは森林浴のようなものなのだ。目を閉じて飲んでみると、一瞬、林や森の中にいるような気分が味わえる。出来のいいお茶なら、本当にこの感覚が沸き起こる。そもそもお茶とは植物であり、自然そのものではないか。茶葉とは、人の手によって、味や香りが凝縮されて眠っている状態であり、それが水の中でゆっくりと自然に帰るのだ。だから、お茶を飲むとは自然をいただくことであり、まさに森林浴である。

実は、一度ものすごいお茶を飲んだことがある。それは冷茶で、飲んだ瞬間に緑色のイメージが頭の中に広がるとともに、目の覚めるような鋭い刺激が口の中に切れ込んできた。まさに切れ込んでくるという表現がぴったりのお茶だった。残念ながらそのお茶の銘柄が思い出せないのだが、いろいろと飲んでいればいつかまた出会うこともあるだろう。

それもまた楽しみのひとつとしよう。

 

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ほぼ日手帳活用法

ほぼ日手帳

今年から私は、ほぼ日刊イトイ新聞プロデュースのほぼ日手帳を使っている。サイズはカズンと呼ばれるA5サイズのものだ。最初はちょっと大きいかなと思ったのだが、使っていると余白になんでも書き込めるので重宝している。

手帳と言えば、予定を書き込んだり、映画やコンサートのチケットを貼付けたりといった「出来事」を記録するツールとして活用されるのが普通だ。私も基本的にはそうした使い方をしている。

しかし、私の場合は勉強用のノートとしての機能の一部をこの手帳に移しているのだ。具体的には、洋書を読んでいてなかなか覚えられない単語などを書き込んで単語帳にしたり、記憶に値する文章に出会うと、忘れないうちに書き込むようにしている。また、ふと思いついたアイデアなどを日にちの枠など無視して書き込んでいる。

実を言うと予定表などはGoogleカレンダーに記入しているので、紙の手帳はなくても困らないのだ。もちろん、重要な予定は手帳にも複写しているが、私にとって手帳の役目とは脳の働きの補助である。

ただし、手帳はあくまでも手帳であり、これを辞書や書籍がわりにしようとは思っていない。記載した単語やフレーズなどは出来る限りその週のうちに記憶してしまい、よほど必要にせまられない限り後からめくり直して調べるということはしない。週をまたいで記憶できない事柄は次の週のページに再び記載する。それだけだ。

こうして手帳を活用するようになってからというもの、勉強がはかどるようになった。今現在必要な情報は手帳を見ればわかるので、単語は単語帳、企画は企画書などといちいち探さなくて済む。いわばなんでも帳といった感覚だ。最初は細かく手帳に情報を転記していたが、面倒だし、記憶の入り口だけ記載しておけば困らないことに気づいてからは、なるべく簡潔に記載するようにしている。

とはいえ、若い頃は、ノートなどなくても簡単になんでも記憶できたのだ。長大な演説の原稿でも私はいつも完全に記憶してこなしてきた。ところが、最近ではあれこれと工夫をしなくてはならない有様である。やはり年齢的なものもあるのだろうか。

年齢と言えば、なんと私は自分の年齢を一歳間違えていた。今日気づいたのだが、実は思っていた歳よりも一歳若かったのである。いつから間違えていたのかはっきりしないのだが、とにかく一年得した気分で、今日は実にハッピーなのだ。

まてよ、自分の歳も勘違いしているとは、これはやばくないだろうか。手帳活用術云々という以前に、何かもっと大切な前提がぐらついているような気がする。

気のせいだといいのだが…

 

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ノイズキャンセリング

ノイズキャンセリング・ヘッドフォン

つい気になって、ノイズキャンセリング機能の付いたヘッドフォンを購入した。

私の場合、移動時間などの寸暇を利用して語学教材などをイヤフォンで聴いているのだが、どうしても周りの雑音が気になって仕方がない。かといって音量を上げるというのも耳に負担だし、音が漏れれば周囲の人々にも迷惑を掛けてしまう。ということで、ノイズキャンセリング機能の付いたヘッドフォンを購入した次第である。

さて、このヘッドフォン、スイッチを入れるとそれまでの雑音がウソのようにピタッと消えるではないか。なるほどこれがノイズキャンセリング機能かとあらためて納得した。通りを走る車の大きな騒音などはかすかに聞こえるし、人の声もある程度は聞こえる。だから全くの無音というわけではないのだが、それでも驚くに十分な効果は堪能できる。

当然と言えば当然だが、ノイズキャンセリング機能はヘッドフォンの視聴機能とは分離しているので、音声などを聴かないときでも防音対策に使用できる。これはなかなか便利だ。資料に目を通したり、読書をしたりするときでも活用できるというわけだ。

で、これを使ってしばらく読書をしてみた。確かに静かな環境が手に入り、集中して本を読むことができるではないか。これなら日中の喧騒の中でも大いに助かる。唯一の問題点は耳が圧迫されるということで、これはときどき休憩を挟むことで対処するしかないだろう。おそらく、将来的にはもっと快適なつけ心地のヘッドフォンが生まれるはずだ。

さて、今日は全国的に台風並みの強風に見舞われた。さすがに岡山は晴れの国というだけあって、この悪天候の中でも午後からは太陽が燦々と輝いたりもした。もっとも、夕方にはまた雨になったし、一日を通して風が強かった。春一番という気もするが、これだけ強い風はなかなか珍しい。そうだ、こんなときこそノイズキャンセリングではないか。さすがに台風並みの強風を消し去ることは無理だったが、それでもかなりの効果があった。う〜む、実に便利なヘッドフォンだ。

以前、病院に数ヶ月入院したことがあるのだが、その時同室の患者にうるさい人がいて迷惑したことがあった。その時、このヘッドフォンがあれば随分助かったに違いない。就寝時は寝返りもするので耳栓の方がよいが、日中はこちらの方が断然快適だ。今度入院するときは必ず持ってゆこう。って、あまり病院の世話にはなりたくないのだが。 

ちなみに、今回の強風だが、桜が満開になる前でよかった。岡山市内でもすでに桜が咲きかかっていて、ぎりぎりセーフという感じだ。この強風が来週なら満開の桜が吹っ飛んだかもしれない。

 

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日本の昔話に教訓はない

富士

日本の昔話をいろいろと読んでみて、はっと気づいたことがある。それは教訓がないということだ。

例えば聖書などを読むと、「○○してはならない」とか「○○するなかれ」といった「教え」のようなものがいっぱい出てくる。物語でありながら、実際には「戒律」を細かく規定した法典、あるいは聖典といった感じだ。それに対し、日本書紀にせよ、古事記にせよ、「誰々がどこどこで○○した」といった話が出てくるだけで、「だから○○してはならない」といった「教え」のようなものは登場しない。

中にはかなり残酷な内容や非道徳的な内容も含まれているが、だからといってそこから何らかの教訓を学び取ろうという姿勢が感じられないのだ。ただ淡々と出来事を述べているだけである。これはどうしたことだろう。

我らが桃太郎伝説もしかりである。例えばひ弱な桃太郎が猛特訓の末にたくましい男に成長したという話なら、なるほど努力は大切だな、などという「教え」に繋がるのだが、彼は生まれつき強靭な肉体を持っていた。きびだんごにしても、彼が一生懸命に原材料のきびを育てたとか、レシピを工夫したとか言えば、なるほど一生懸命がんばることが大切だな、などという「教え」に繋がるのだが、きびだんごはおばあさんからもらっただけである。

その後、猿、犬、雉を仲間にするが、これとて、桃太郎の人柄に惹かれて仲間が集まったのなら、なるほど人望が大切だな、などという「教え」が得られるのだが、仲間はきびだんごという報酬ほしさにやってきただけのいわば傭兵である。そして、鬼退治の場面も、鬼の言い分も聞かず、いきなり多数で襲いかかっているだけだ。おまけに鬼の宝を略奪し、貧しい人々に配るわけでもなく、独り占めして故郷に帰る…

冷静に考えると、何一つ「教訓」めいたものがないではないか。それどころか、努力もせず、報酬で助っ人を雇い、暴力と略奪を成功させた男の物語という以外に説明のしようがない。う~む、考えれば考えるほど、桃太郎は嫌な奴である。こんな嫌な奴を岡山のシンボルにしてよいのだろうか。

とまあ、少しエキサイトしてしまったが、要するに日本の昔話には「教え」とか「戒律」のようなものを規定する意図はなく、ただ淡々とストーリーを語る傾向があるということなのだ。これに気づいたのは何も私が最初ではなく、多くの歴史学者、特に神話などに造詣の深い研究者の方々が既に指摘しているようである。

こうした視点で昔話を読むとなかなか面白い。例えば、かぐや姫などもそうだ。突然竹の中から誕生し、さんざん老夫婦に世話になっておきながら、ある日迎えが来たといって去ってゆく…

やはり、どこにも「教訓」はない。この物語から一体何を学べというのだろう。強いて言えば、世の中は理不尽だよ、ということだろうか。う~む、救いがない。教訓も救いもないとなれば、一体何のための昔話なのだ。だが、これこそまさに日本の昔話の王道なのである。

ということは、我々日本人にはそもそも「教訓」という文化がないのではないだろうか。あるいは「学ばない」というDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

そういえば、何かと世間を騒がしている政治家や経済界の人々を見ていて、どうして何も学ばないのだろうと私はこれまで思っていた。だが、それは日本人の習性なのだと考えれば見事に腑に落ちるではないか。なんということだ。実に恐ろしい仮説だ。この仮説が間違っていることを心から祈る。頼む、間違っていると言ってくれ!!

とにかく、このままではやばい。せめて桃太郎伝説エピソード I だけでも何かを学べる物語にしたいものだ。

 

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サクラサク

桜

いよいよ四月になった。四月と言えば入学式、新学期、そして入社式となにかとスタートという表現がしっくりくる。最近では秋入学などを検討している大学もあるようだが、私としてはやはり桜の季節でなければ落ち着かない。だいたい国際化などと言っているようでは真の国際化など達成できるはずがないと私は思う。むしろ諸外国が日本に合わせるような日が来てこそ国際化と言えるのではないだろうか。

ところで、毎年この時期になると気になることがある。それはリクルートスーツだ。どいつもコイツもリクルートスーツを着て街を歩いている。それが気に入らない。なぜかというと個性が感じられないからだ。

そもそもリクルートスーツなどというシロモノは日本にしかないと思う。一体誰が考案したのだろう。男性はまだしも、女性がみんな同じ色のスーツを着ていては華やかさもないし、まるでクローン軍団のようで不気味だ。

特に唖然とするのがアパレル会社の入社式である。アパレルと言えばファッション業界ではないか。そこの入社式ともなれば、新入社員はファッショナブルに着飾っていなくてはおかしい。しかし、実際にはアパレル会社の入社式もリクルートスーツ一色なのである。

全くどうかしている。私がアパレル会社の社長なら、リクルートスーツで入社式にやってくる新入社員はクビにするか、少なくとも雷を落としてやるところだ。ファッション業界で働く志が感じられないからだ。リクルートスーツはファッションとは対極にあるといってよい。そんなものはファッション業界には不要だ。

う~む、いつもながら無責任な主張を展開しているが、こんな私の主張にも一理はあるはずだ。やはり、新入社員が日本全国どこでも皆同じリクルートスーツ姿というのは異常ではないだろうか。故スティーブ・ジョブズなら絶対に許さない格好だと思うのだが。

それはともかく、四月と言えばなんといっても桜の季節だ。いつまでもリクルートスーツなどというクローン軍団の制服を着ていないで、色鮮やかな服装に身を包んでもらいたい。

そう言えば、きびだんご王国のサイトにも季節感がほしいな。いつも同じではつまらない。ここはひとつ、季節感を演出したサイト作りを心がけることにしよう。

 

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