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日本の昔話に教訓はない

富士

日本の昔話をいろいろと読んでみて、はっと気づいたことがある。それは教訓がないということだ。

例えば聖書などを読むと、「○○してはならない」とか「○○するなかれ」といった「教え」のようなものがいっぱい出てくる。物語でありながら、実際には「戒律」を細かく規定した法典、あるいは聖典といった感じだ。それに対し、日本書紀にせよ、古事記にせよ、「誰々がどこどこで○○した」といった話が出てくるだけで、「だから○○してはならない」といった「教え」のようなものは登場しない。

中にはかなり残酷な内容や非道徳的な内容も含まれているが、だからといってそこから何らかの教訓を学び取ろうという姿勢が感じられないのだ。ただ淡々と出来事を述べているだけである。これはどうしたことだろう。

我らが桃太郎伝説もしかりである。例えばひ弱な桃太郎が猛特訓の末にたくましい男に成長したという話なら、なるほど努力は大切だな、などという「教え」に繋がるのだが、彼は生まれつき強靭な肉体を持っていた。きびだんごにしても、彼が一生懸命に原材料のきびを育てたとか、レシピを工夫したとか言えば、なるほど一生懸命がんばることが大切だな、などという「教え」に繋がるのだが、きびだんごはおばあさんからもらっただけである。

その後、猿、犬、雉を仲間にするが、これとて、桃太郎の人柄に惹かれて仲間が集まったのなら、なるほど人望が大切だな、などという「教え」が得られるのだが、仲間はきびだんごという報酬ほしさにやってきただけのいわば傭兵である。そして、鬼退治の場面も、鬼の言い分も聞かず、いきなり多数で襲いかかっているだけだ。おまけに鬼の宝を略奪し、貧しい人々に配るわけでもなく、独り占めして故郷に帰る…

冷静に考えると、何一つ「教訓」めいたものがないではないか。それどころか、努力もせず、報酬で助っ人を雇い、暴力と略奪を成功させた男の物語という以外に説明のしようがない。う~む、考えれば考えるほど、桃太郎は嫌な奴である。こんな嫌な奴を岡山のシンボルにしてよいのだろうか。

とまあ、少しエキサイトしてしまったが、要するに日本の昔話には「教え」とか「戒律」のようなものを規定する意図はなく、ただ淡々とストーリーを語る傾向があるということなのだ。これに気づいたのは何も私が最初ではなく、多くの歴史学者、特に神話などに造詣の深い研究者の方々が既に指摘しているようである。

こうした視点で昔話を読むとなかなか面白い。例えば、かぐや姫などもそうだ。突然竹の中から誕生し、さんざん老夫婦に世話になっておきながら、ある日迎えが来たといって去ってゆく…

やはり、どこにも「教訓」はない。この物語から一体何を学べというのだろう。強いて言えば、世の中は理不尽だよ、ということだろうか。う~む、救いがない。教訓も救いもないとなれば、一体何のための昔話なのだ。だが、これこそまさに日本の昔話の王道なのである。

ということは、我々日本人にはそもそも「教訓」という文化がないのではないだろうか。あるいは「学ばない」というDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

そういえば、何かと世間を騒がしている政治家や経済界の人々を見ていて、どうして何も学ばないのだろうと私はこれまで思っていた。だが、それは日本人の習性なのだと考えれば見事に腑に落ちるではないか。なんということだ。実に恐ろしい仮説だ。この仮説が間違っていることを心から祈る。頼む、間違っていると言ってくれ!!

とにかく、このままではやばい。せめて桃太郎伝説エピソード I だけでも何かを学べる物語にしたいものだ。

 

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