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ストレス溜まってます?

ストレス

最近心療内科が流行っていると聞く。岡山市内でもクリニックがあちこちで開院されているようだ。重い精神疾患の人はいうまでもなく、ごく普通に働いている人々の中にもこうしたクリニックに通っている人が少なくないらしい。どうやらストレスなどを抱えた人が増えているようだ。現代人にとってストレスや様々な悩みといった心の問題はどうやら大きな社会問題であるらしい。

ストレスや悩みからくる精神障害は、ほっておくと身体まで蝕んでしまう恐ろしい敵だ。なんとかこうした問題を取り除くことはできないのだろうか。知り合いの医師と議論してみた。

まず、物理的に取り除く方法だ。要するに脳の中からストレスや悩みを感じる部位を手術で外科的に取り除いてしまおうという試みである。だが、これはあっさり否定されてしまった。問題の部位を特定するのが難しい上に、万一上手く取り除けたとしても、その患者は二度とストレスも悩みも感じなくなってしまう可能性があるとのこと。つまり、朝から晩まで常にハッピーという、ある意味アブナイ人物になってしまうかもしれないのだ。失敗しても叱られても、とにかく嬉しい、そういう精神状態はやはり不自然だ。

次に、脳の中の嫌な記憶や心配事を電気的に取り除いてきれいさっぱり整理してはどうかと提案した。要するにコンピュータのハードディスクのデフラグのような対策だ。原理を説明しよう。人間は寝ている間に脳の記憶を整理しているという研究結果が報告されている。恐らく夢を見ているレム睡眠時だと思われるが、無意識に行われるため、消したい記憶や整理したい記憶を都合良く扱うことができない。

そこで、脳をコンピュータにつないで、ソフトウェアでデフラグを行うのだ。画面を見ながらマウスで不要な記憶を消去したり、様々な条件を指定した上であちこちに散らばっている記憶の断片を自動処理でくっつけたりと実に快適だ。脳との接続方法だが、iPhoneのタッチパネルのようなテクノロジーで、脳波の電気信号を取り込むデバイスを開発すればよい。映画『マトリックス』に出てくるような首の後ろのプラグは嫌だ。

さて、問題はソフトウェアである。例えばマックロソフト社のようにロクにテストもせずに発売し、後から不具合の修正を小出し小出しにアップデートする輩が出てくると困ったことになる。最悪の場合、頭の中がバグだらけという笑えないことになりかねない。そうなると会社で何かミスをすると、上司から「いい加減アップデートしろ!」とののしられることになるかもしれない。案外流行語になるかも。

さらに悲惨なのは、ウイルスだ。知らぬ間にコンピュータウイルスに脳が感染すると、無意識のうちに銀行に行って詐欺集団の口座に大金を振り込むといった事件が勃発するかもしれない。これはやばい。やはり脳をコンピュータに接続するのは危険だ。

というわけで、今回の医師との対談からは、ストレス社会への抜本的な解決策は得られなかった。努力はしたが力不足だったようだ。しかし、近い将来、我々の健康・生命維持にある程度有効なソフトウェアは開発されそうである。

例えば、iPhoneにAEDアプリが登場するというのはどうだろう。いざというとき、iPhoneを胸においてソフトを起動、赤いボタンをタッチすると電流がイナズマのごとく走るというスグレモノだ。ただし、一回でバッテリーが死ぬ。だが待てよ、これも悪用されるとそこはかとなく危険なアプリではあるな。

レントゲンアプリはどうだ。病院に行かなくても、いつでも身体をスキャンできる。もちろん解析機能も付いていて、腫瘍があれば警告が表示される。

カイロアプリもほしい。寒い日はiPhoneで暖まろう。温度を上げれば珈琲の保温にも使える。いや、お湯を沸かすことも不可能ではない。これは便利だ。

おやおや、すっかり話が脱線してしまった。結局、世の中はこれから先もどんどん便利になっていくが、人々のストレスはなくなりそうもない。

どうやら人間はそれほど便利にはできていないようだ。

 

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オーケストラの指揮者

フルトベングラー
みなさんはオーケストラの指揮者を見ていて、一体何をやっているのか疑問に思ったことはないだろうか。私は子供の頃からずっと疑問に思っていた。大勢の楽団員の前でひとりだけ客席にお尻を見せている。何やら腕を振り回しているようだが、よくわからない。中には相当滑稽な動きをする指揮者もいるが、オーケストラは淡々と演奏している…

実は、一口に指揮者といってもやっていることは千差万別なのだ。楽器奏者なら、楽譜を見てそこにある音符を音にする。音にする仕方はいろいろだが、基本的に弦楽器なら弓で弦をこするし、管楽器なら管の中に息を吹きかける。とまあ、音楽的なことは置いといて、やっていることは素人にも理解できる。

ところが、指揮者だけはよくわからない。棒を振っているが、楽譜には振り方が書かれているわけではなく、指揮者が自分で工夫しなくてはならない。入門書には拍子の振り方が解説されているが、そんなものを振り続けるほどバカバカしいことはない。結局、何をどう振るかは指揮者個人にまかされているわけだ。

私が観察したところ、指揮者はひとりひとりやっていることがかなり異なる。オーケストラの交通整理をしている者もいれば、司令官のように命令している者もいる。身体で音楽の表情を表現している者もいれば、陶酔している者もいるし、耳に聞こえる音というものを目で見えるように表現して楽団員に示している者もいる。拍子をとっている者もいれば、踊っている者もいるし、楽団員に催眠術をかけている者もいる。

なんと、指揮者の仕事とは、なんでもアリの無法地帯なのだ。だからこそ、面白いのであろう。特に、いわゆる指揮法などというものが確立される前の指揮者が面白い。黎明期の指揮者たちは、自分たちの経験と勘で自由にやっていた。現代の指揮者からみるとテクニックがお粗末かもしれないが、出てくる音楽はまぎれもなく彼らのものであった。

一方、音楽大学に指揮科のある現代では、テクニックこそしっかりしているが、面白みのない指揮者が多くなった気がする。私は指揮科を出ていない指揮者が好きだ。指揮科を出ていない指揮者というと今では少数派だが、かつてはほぼ全ての指揮者がそうだった。昔は指揮者といえば、作曲家かオペラのリハーサル用ピアノ伴奏者を経験した者かに大きく二分されていたのだ。今のように音楽大学の指揮科を卒業してコンクールを受けて… といった流れではなかったのである。

私は、芸術というものは実は学校で学ぶものではないのではないかという気がしている。要するに世間で考えられているほどアカデミックなものではないと思うのだ。小説家も彫刻家も画家も作曲家もおよそ創作に関する芸術は独学でいいのではないだろうか。いや、そもそも学問というものは本来独学があるべき姿なのかもしれない。大学とは何かを教えてもらう場ではなく、自分で学び取る心構えのある者が集まる所ではないだろうか。自分で学び取る限り、大学に在籍しようと、独学であろうと大した違いはないと思う。ただ、大学にいれば、様々な資料がいつでも手の届く所にあるし、疑問を語り合う友や教師が大勢いるという点で有利だが…

しかし、いずれはひとりで学ばなくてはならない時が来る。私も大学を出ているが、本当に大切なことは社会に出てから学んだ。大学で学べることは人生においてはほんの僅かでしかない。

さて、指揮者は創作者か演奏者か。長い間議論され、いまだ決着がつかない問題である。厳密に言えば作曲家こそ創作者であり、指揮者は演奏者にすぎない。だが、やり方によっては指揮者にも創作者の世界に踏み込む余地があろう。

この辺り、目の前の指揮者が音楽というフィールドのどこに立っているのかを見定めるのがコンサートの醍醐味のひとつである。それはすなわち、その指揮者がオーケストラを前に何をしているのかということでもあり、音楽をどう生きているかということでもある。

指揮者というのは、特別な存在なのだ。

 

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お二人の幸せを応援します!

お二人の幸せを応援します!

テレビのワイドショーで岡山出身の俳優の熟年離婚が大きく取り上げられていた。仲のいい夫婦と定評があっただけにショックを受けた人も多いかもしれない。まあ、他人の離婚話などわざわざ電波で流す必要はないと思うが、しかし岡山の印象は確実に悪くなった。観光業にもマイナスの影響が出かねない勢いだ。

そこで、どうすれば離婚を減らすことができるのか知恵を絞ってみよう。断っておくが、面白半分ではない。あくまでも、世の中の人々が幸せでいてくれたらという、ただその一念で離婚対策を考えることにしたまでである。

そもそもなぜ離婚するのか、ということだが、離婚した人々の話を総合すると「こんなはずじゃなかった」という言い訳が多いことに気づく。つまり、「想定外」ということだ。想定外と言えば、昨年起きた東京電力福島原子力発電所における未曾有の大事故が記憶に新しい。東京電力は自分たちの過ちを棚に上げて、何でもかんでも想定外という言い訳で逃げていた。まったく情けない限りだ。

はっきり言おう。離婚経験者には東京電力を批判する資格はない。

5メートルの津波がきても夫婦仲は大丈夫と安心していたところ、想定外の10メートルを越える津波が来て夫婦生活が破綻したというのが大抵の原因だ。つまり、想定さえしておけば防げたのである。離婚を減らすには最悪の事態を想定しておく、というのが大切だ。

アメリカなどでは、タバコの箱に末期癌患者の生々しい臓器の写真が掲載されている。そこまでしなければタバコの販売許可が下りないのだ。そこで、日本でも結婚式場にリスクを警告するポスターを貼ることを法律で義務づければよい。具体的には、鬼のような形相で暴力をふるう、返り血を浴びた夫の写真とか、姑にいじめられて泣き崩れる、怨念のゾンビと化した新妻の写真、あるいは長年家族のために働いてきたのに、定年を迎えた途端妻に捨てられ、夕暮れの公園でブランコにひとり腰を下ろし、何かに取り憑かれたように遠くを見つめている男性の写真といったものだ。こうした写真を大きなポスターにして結婚式場に貼り付けることを義務づければよい。これで、「こんなはずじゃなかった」という言い訳は通用しなくなるだろう。

大体ブライダル産業は、結婚の明るい面ばかり強調し、暗黒面についてはひた隠しに隠している。これはフェアではない。タバコによって不幸になる人も多いが、結婚によって不幸になる人もそれに劣らずかなりの数に上る。タバコ産業だけ規制するというのはどう考えても不公平である。ある意味詐欺まがいのブライダル産業に正義の鉄槌を下す時がきたのだ。

次に、結婚を免許制にしてしまおう。結婚志願者は結婚教習所に通って結婚生活に必要な常識や技能を学ぶことになる。家事、育児、近所付き合いなど、様々なトラブルに対処する能力を身につけるのだ。私立探偵にも講師として登壇してもらい、様々な浮気調査の事例を解説していただこう。

それでも結婚したいという奇特な者は、最終の筆記試験を受け、合格すれば結婚免許証を受け取ることができる。もちろん有料だ。そして、3年ごとに免許の更新がある。これをやれば、消費税など上げなくても十分国庫が潤うではないか。幸せな夫婦が増えて、しかも国の財政が豊かになる。実に優れた仕組みである。

ちなみに、ゴールド免許の夫婦は30分の講義ビデオを見るだけで更新できるが、喧嘩が絶えない夫婦は長時間の講習を受けなくてはならない。別居などは一発免停だ。

そして、婚姻届を役所に出す際には、強制保険に加入させる。要するに自賠責のようなもので、夫婦間のトラブルによる器物破損や怪我を補償するのだ。それ以外は各保険会社による任意保険で対処しよう。つまり、「離婚保険」だ。離婚しても相手に経済力がない場合は慰謝料を受け取ることができない。また、泥沼化した場合の訴訟費用もかなりの額になる。これらを補償するのが離婚保険というわけである。

若い人が勢いで結婚する場合や芸能人は離婚のリスクが高いので、保険料は高く設定する。離婚経験者も当然高くなる。一方、晩婚の人は安く設定していいだろう。死別の際に消滅する掛け捨てや、積み立て貯蓄タイプなどいろいろ用意すればいい。

私が保険外交員なら、全国の結婚式場に出かけて新郎新婦に離婚保険を売りまくる。え? そんな保険は売りにくいだろうって!? 大丈夫、名前を工夫すれば心配ない。昔から保険会社がやっている手口ではないか。例えば「堂々結婚生活終身タイプ」とか「愛情フォーエヴァー」とか、あるいは今はやりの「絆」といったネーミングでばっちりだ。後は好感度の高い芸能人を起用して大々的にCMを打つ。そうだ、CMソングも耳に残りやすいものにしよう。「♪サルとアヒルが力を合わせてみんなの幸せを~、招かザルダック~♪」といった具合だ。キャッチコピーはいかにも親切そうに、「お二人の幸せを応援します!」がいいだろう。これで決まりだな。グッジョブ!!

とまあ、ここまでやれば離婚するカップルはかなり減るのではないだろうか。

あるいは、誰も結婚しなくなるかもしれないが…

 

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ホタルの住む脳でいたい

ホタルの光

先日、岡山の市街地を流れる西川という小さな川にホタルを定着させようという運動を展開したことがある人物に出会った。西川というのは、岡山県三大河川の一つである旭川の合同堰から水を取り入れた、もともと農業用の用水である。岡山の中心街を流れている。

で、成果はどうだったのかと尋ねると、うまくいかなかったそうである。この人物の話では、なんでも川が街の中心部にあり、夜もネオンの明かりなどで照らされ続けるため、ホタルの棲息に適さなかったとのことである。

ネオンがどの程度障害になるかは私にはよくわからないが、確かに市内中心部にホタルというのは無理がありそうだ。そもそも西川は護岸工事がされている区間が大半を占める。ここでいうホタルとはゲンジボタルかヘイケボタルのことだろうから、幼虫は川の中でカワニナを食べて育つが、蛹になるのは川岸の土の中なので、護岸工事はこれらのホタルにとって致命的である。まさか、こうしたホタルの生態を知らずに西川に放流したのだろうか。だとしたら無謀と言わざるを得ない。

ところで、幼虫は川の中で、と書いたが、これは驚くべきことである。というのも、世界中でホタルは2000種ほどいるらしいが、その中で幼虫が水中で過ごすのはほんのわずかだ。たまたまその内の数種類が日本に集中しているのだ。つまり、ゲンジボタルとヘイケボタルなどであり、これらは特殊なケースなのだ。

ちなみに、ヒメボタルというどちらかというとマイナーなホタルがいて、こちらの幼虫は陸生で、カタツムリなどを食べている。が、実はこれこそがホタルの国際標準なのだ。ホタルの幼虫は陸上、これが常識であり、ゲンジボタルやヘイケボタルのように幼虫が水中というのは非常識なのである。ここでも竹村健一が言うように、日本の常識は世界の非常識という構図が確かめられた。

それはともかく、ホタルの放つ光は美しい。日本の初夏に欠かせない風物詩である。しかし、実は幼虫も光るということをご存知だろうか。そうなのだ。幼虫も光るのである。だから、その気になれば冬だってホタルの光が楽しめるのだが、なぜか冬の風物詩にはならない。ちなみに蛹も流行に遅れまいと発光する。ただし土中なのでなんの効果があるのかよくわからない。また、成虫になっても発光しない種類もある。

で、話を元に戻すが、先の人物はホタルが戻ってくるほどきれいな川を再生したいという運動をしていたわけだ。護岸工事をした川はもはや川ではなく単なる水路だというのが私の見解だが、それでも汚い水が流れるよりはきれいな水が流れた方がいいに決まっている。実際、旭川と西川の水質は、私が子供の頃よりも良くなっているようだ。ただし、それよりもっと前、私の父が子供だった頃には遠く及ばない。父は子供の頃、西川でよく泳いで遊んだと言っていた。私は誰かが泳いでいるのを見たことがない。今は泳ぐことなどありえない有様だ。

都市化とは脳化だと養老孟司は言う。つまり、都市とはヒトの脳の中で考えたことが具現化された姿に他ならないという考え方だ。だとすると、我々の脳の中からホタルのような懐かしい仲間が消えつつあるということを意味していないだろうか。果たして私の脳の中はどうだろう。幸い、近代的な大都会にはほど遠い、かなり時代遅れの風景が残っているようだ。

だからだろう、よく古いと言われる。

 

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君が代

さざれ石

今日は建国記念日ということで朝から街宣車が「君が代」を流している。気持ちはわからないでもないが、朝の珈琲タイムくらい静かにしておいてもらいたいものだ。

さて、何かと物議を醸している「君が代」だが、みんな意味を知っているのだろうか。現代語訳すると「あなたの年齢」となる。

「君が代」が登場する最も古い文献は紀貫之(きのつらゆき)らの撰による『古今和歌集』(十世紀初頭)とされている。その巻の七「賀歌(がのうた)」の部のはじめに、題しらず、詠みびとしらずとして「我君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある。これが時代とともに変形し、「君が代は千代に八千代に~」となった。

ちなみに、『古今和歌集』の「賀歌」の部には、光孝天皇が僧正遍昭の七十歳を祝って贈った「斯くしつつとにも斯にも長らへて君が八千代に逢ふ由もがな」という歌がある。天皇が僧侶を「君」と呼んでいることから、この「君」という言葉に天皇という意味などないことは明白である。「君」とは誰に使ってもよい二人称なのだ。つまり「君が代」の「君」を天皇としたのは明治政府のでっち上げにすぎない。

では、「君が代」を訳してみよう。

君が代は:  あなたの齢(よわい)は
千代に八千代に:  ずっとずっといつまでも
さざれ石の : 細かい石が
巌となりて: おおきな岩となって
苔のむすまで : 苔が生えるまで(長生きしてくださいね)

つまり、年長者に対する、これからもずっと長生きしてくださいね、という祝い歌である。昔は四十歳、五十歳といった区切りのよい歳に祝いの歌を贈る習慣があり、「君が代」はその年寿を祝う歌だったのだ。

細かい石がくっついて、いつしか大きな岩となり、さらに表面に苔がびっしり生えるまで、ということだが、随分長い年月を要するだろう。ひょっとすると両生類が爬虫類に進化するほどの年月かもしれない。そんなに長生きできるか、とツッコミを入れたくなるほどだが、当時の人の豊かな感性の表れである。

この歌は『古今和歌集』以後も様々な文献に現れる。『新撰和歌集』『和漢朗詠集』などだ。さらに江戸時代になると浄瑠璃(じょうるり)、小唄、長唄などにも取り入れられていく。まあ、おめでたい歌だから人気があったのだろう。

そして、明治維新の後、イギリスの軍楽隊長だったJ.W.フェントンから国歌の必要性を説かれた薩摩藩砲兵隊長の大山弥助(後の元帥陸軍大将大山巌)は、当時薩摩で歌われていた薩摩琵琶歌『蓬萊山(ほうらいさん)』の中から「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼した。が、曲想が洋風でなじめず、宮内省雅楽課に再度依頼。結局、林広守が作曲し直し、F.エッケルトが編曲して現在の形になったと伝えられている。

明治維新の原動力であった薩摩の人々が明治政府の中枢を占めていたために、薩摩の歌が国歌になったのであろう。もし、備前岡山の侍たちが明治維新を主導していれば、「わたしゃ備前の岡山育ち、米のなる木をまだ知らぬ~」という歌が国歌になっていたかもしれない。

ところで、「君が代」はいかにもアジアンテイストでなかなか面白いが、一カ所だけ致命的な所がある。それは「さざれ石の」という箇所だ。「さざれ石」で一つの単語なのに、この曲では「さざれ」と「石」の間にフレーズの区切りが入ってしまっている。だから、「さざれ」と「石」の間で息継ぎをして歌う人が後を絶たない。しかし、言葉の意味を考えると、「さざれ」と「石」の間で息継ぎは厳禁である。「さざれ石」と一息で歌わなくてはならない。が、この箇所に変なフレーズの切れ目があるために歌いづらいことこの上ないのだ。できれば作曲し直すか、歌詞を変更したいところだが、いまさらどうにもならないだろう。

それはともかく、「君が代」の「君」を天皇とした明治政府によって「君が代」は天皇を中心とする帝国主義国家の運営に利用された。第二次世界大戦後、今度は「君」とは国民を指すと定義が改められたそうだが、もともと誰を指してもよい言葉なので、あれこれ議論すること自体不毛だ。

にもかかわらず、毎年何かと物議を醸し続けている。裁判沙汰になっている事例も少なくない。恐らく、「君が代」が単なる年寿の祝い歌だという認識が広まっていないからではないだろうか。ちゃんと認識されていれば、そもそも争点などないのだから問題など起こりそうもないではないか。もっとも、帝国主義に利用された曲という事実が許せないという人々がいることはいかんともしがたいが…

とにかく、小学校で英語なんか教える時間があれば、もっと歴史を教えた方がよいと思うのは私だけだろうか。
(写真は京都・下鴨神社のさざれ石)

 

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