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お二人の幸せを応援します!

お二人の幸せを応援します!

テレビのワイドショーで岡山出身の俳優の熟年離婚が大きく取り上げられていた。仲のいい夫婦と定評があっただけにショックを受けた人も多いかもしれない。まあ、他人の離婚話などわざわざ電波で流す必要はないと思うが、しかし岡山の印象は確実に悪くなった。観光業にもマイナスの影響が出かねない勢いだ。

そこで、どうすれば離婚を減らすことができるのか知恵を絞ってみよう。断っておくが、面白半分ではない。あくまでも、世の中の人々が幸せでいてくれたらという、ただその一念で離婚対策を考えることにしたまでである。

そもそもなぜ離婚するのか、ということだが、離婚した人々の話を総合すると「こんなはずじゃなかった」という言い訳が多いことに気づく。つまり、「想定外」ということだ。想定外と言えば、昨年起きた東京電力福島原子力発電所における未曾有の大事故が記憶に新しい。東京電力は自分たちの過ちを棚に上げて、何でもかんでも想定外という言い訳で逃げていた。まったく情けない限りだ。

はっきり言おう。離婚経験者には東京電力を批判する資格はない。

5メートルの津波がきても夫婦仲は大丈夫と安心していたところ、想定外の10メートルを越える津波が来て夫婦生活が破綻したというのが大抵の原因だ。つまり、想定さえしておけば防げたのである。離婚を減らすには最悪の事態を想定しておく、というのが大切だ。

アメリカなどでは、タバコの箱に末期癌患者の生々しい臓器の写真が掲載されている。そこまでしなければタバコの販売許可が下りないのだ。そこで、日本でも結婚式場にリスクを警告するポスターを貼ることを法律で義務づければよい。具体的には、鬼のような形相で暴力をふるう、返り血を浴びた夫の写真とか、姑にいじめられて泣き崩れる、怨念のゾンビと化した新妻の写真、あるいは長年家族のために働いてきたのに、定年を迎えた途端妻に捨てられ、夕暮れの公園でブランコにひとり腰を下ろし、何かに取り憑かれたように遠くを見つめている男性の写真といったものだ。こうした写真を大きなポスターにして結婚式場に貼り付けることを義務づければよい。これで、「こんなはずじゃなかった」という言い訳は通用しなくなるだろう。

大体ブライダル産業は、結婚の明るい面ばかり強調し、暗黒面についてはひた隠しに隠している。これはフェアではない。タバコによって不幸になる人も多いが、結婚によって不幸になる人もそれに劣らずかなりの数に上る。タバコ産業だけ規制するというのはどう考えても不公平である。ある意味詐欺まがいのブライダル産業に正義の鉄槌を下す時がきたのだ。

次に、結婚を免許制にしてしまおう。結婚志願者は結婚教習所に通って結婚生活に必要な常識や技能を学ぶことになる。家事、育児、近所付き合いなど、様々なトラブルに対処する能力を身につけるのだ。私立探偵にも講師として登壇してもらい、様々な浮気調査の事例を解説していただこう。

それでも結婚したいという奇特な者は、最終の筆記試験を受け、合格すれば結婚免許証を受け取ることができる。もちろん有料だ。そして、3年ごとに免許の更新がある。これをやれば、消費税など上げなくても十分国庫が潤うではないか。幸せな夫婦が増えて、しかも国の財政が豊かになる。実に優れた仕組みである。

ちなみに、ゴールド免許の夫婦は30分の講義ビデオを見るだけで更新できるが、喧嘩が絶えない夫婦は長時間の講習を受けなくてはならない。別居などは一発免停だ。

そして、婚姻届を役所に出す際には、強制保険に加入させる。要するに自賠責のようなもので、夫婦間のトラブルによる器物破損や怪我を補償するのだ。それ以外は各保険会社による任意保険で対処しよう。つまり、「離婚保険」だ。離婚しても相手に経済力がない場合は慰謝料を受け取ることができない。また、泥沼化した場合の訴訟費用もかなりの額になる。これらを補償するのが離婚保険というわけである。

若い人が勢いで結婚する場合や芸能人は離婚のリスクが高いので、保険料は高く設定する。離婚経験者も当然高くなる。一方、晩婚の人は安く設定していいだろう。死別の際に消滅する掛け捨てや、積み立て貯蓄タイプなどいろいろ用意すればいい。

私が保険外交員なら、全国の結婚式場に出かけて新郎新婦に離婚保険を売りまくる。え? そんな保険は売りにくいだろうって!? 大丈夫、名前を工夫すれば心配ない。昔から保険会社がやっている手口ではないか。例えば「堂々結婚生活終身タイプ」とか「愛情フォーエヴァー」とか、あるいは今はやりの「絆」といったネーミングでばっちりだ。後は好感度の高い芸能人を起用して大々的にCMを打つ。そうだ、CMソングも耳に残りやすいものにしよう。「♪サルとアヒルが力を合わせてみんなの幸せを~、招かザルダック~♪」といった具合だ。キャッチコピーはいかにも親切そうに、「お二人の幸せを応援します!」がいいだろう。これで決まりだな。グッジョブ!!

とまあ、ここまでやれば離婚するカップルはかなり減るのではないだろうか。

あるいは、誰も結婚しなくなるかもしれないが…

 

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ホタルの住む脳でいたい

ホタルの光

先日、岡山の市街地を流れる西川という小さな川にホタルを定着させようという運動を展開したことがある人物に出会った。西川というのは、岡山県三大河川の一つである旭川の合同堰から水を取り入れた、もともと農業用の用水である。岡山の中心街を流れている。

で、成果はどうだったのかと尋ねると、うまくいかなかったそうである。この人物の話では、なんでも川が街の中心部にあり、夜もネオンの明かりなどで照らされ続けるため、ホタルの棲息に適さなかったとのことである。

ネオンがどの程度障害になるかは私にはよくわからないが、確かに市内中心部にホタルというのは無理がありそうだ。そもそも西川は護岸工事がされている区間が大半を占める。ここでいうホタルとはゲンジボタルかヘイケボタルのことだろうから、幼虫は川の中でカワニナを食べて育つが、蛹になるのは川岸の土の中なので、護岸工事はこれらのホタルにとって致命的である。まさか、こうしたホタルの生態を知らずに西川に放流したのだろうか。だとしたら無謀と言わざるを得ない。

ところで、幼虫は川の中で、と書いたが、これは驚くべきことである。というのも、世界中でホタルは2000種ほどいるらしいが、その中で幼虫が水中で過ごすのはほんのわずかだ。たまたまその内の数種類が日本に集中しているのだ。つまり、ゲンジボタルとヘイケボタルなどであり、これらは特殊なケースなのだ。

ちなみに、ヒメボタルというどちらかというとマイナーなホタルがいて、こちらの幼虫は陸生で、カタツムリなどを食べている。が、実はこれこそがホタルの国際標準なのだ。ホタルの幼虫は陸上、これが常識であり、ゲンジボタルやヘイケボタルのように幼虫が水中というのは非常識なのである。ここでも竹村健一が言うように、日本の常識は世界の非常識という構図が確かめられた。

それはともかく、ホタルの放つ光は美しい。日本の初夏に欠かせない風物詩である。しかし、実は幼虫も光るということをご存知だろうか。そうなのだ。幼虫も光るのである。だから、その気になれば冬だってホタルの光が楽しめるのだが、なぜか冬の風物詩にはならない。ちなみに蛹も流行に遅れまいと発光する。ただし土中なのでなんの効果があるのかよくわからない。また、成虫になっても発光しない種類もある。

で、話を元に戻すが、先の人物はホタルが戻ってくるほどきれいな川を再生したいという運動をしていたわけだ。護岸工事をした川はもはや川ではなく単なる水路だというのが私の見解だが、それでも汚い水が流れるよりはきれいな水が流れた方がいいに決まっている。実際、旭川と西川の水質は、私が子供の頃よりも良くなっているようだ。ただし、それよりもっと前、私の父が子供だった頃には遠く及ばない。父は子供の頃、西川でよく泳いで遊んだと言っていた。私は誰かが泳いでいるのを見たことがない。今は泳ぐことなどありえない有様だ。

都市化とは脳化だと養老孟司は言う。つまり、都市とはヒトの脳の中で考えたことが具現化された姿に他ならないという考え方だ。だとすると、我々の脳の中からホタルのような懐かしい仲間が消えつつあるということを意味していないだろうか。果たして私の脳の中はどうだろう。幸い、近代的な大都会にはほど遠い、かなり時代遅れの風景が残っているようだ。

だからだろう、よく古いと言われる。

 

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君が代

さざれ石

今日は建国記念日ということで朝から街宣車が「君が代」を流している。気持ちはわからないでもないが、朝の珈琲タイムくらい静かにしておいてもらいたいものだ。

さて、何かと物議を醸している「君が代」だが、みんな意味を知っているのだろうか。現代語訳すると「あなたの年齢」となる。

「君が代」が登場する最も古い文献は紀貫之(きのつらゆき)らの撰による『古今和歌集』(十世紀初頭)とされている。その巻の七「賀歌(がのうた)」の部のはじめに、題しらず、詠みびとしらずとして「我君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある。これが時代とともに変形し、「君が代は千代に八千代に~」となった。

ちなみに、『古今和歌集』の「賀歌」の部には、光孝天皇が僧正遍昭の七十歳を祝って贈った「斯くしつつとにも斯にも長らへて君が八千代に逢ふ由もがな」という歌がある。天皇が僧侶を「君」と呼んでいることから、この「君」という言葉に天皇という意味などないことは明白である。「君」とは誰に使ってもよい二人称なのだ。つまり「君が代」の「君」を天皇としたのは明治政府のでっち上げにすぎない。

では、「君が代」を訳してみよう。

君が代は:  あなたの齢(よわい)は
千代に八千代に:  ずっとずっといつまでも
さざれ石の : 細かい石が
巌となりて: おおきな岩となって
苔のむすまで : 苔が生えるまで(長生きしてくださいね)

つまり、年長者に対する、これからもずっと長生きしてくださいね、という祝い歌である。昔は四十歳、五十歳といった区切りのよい歳に祝いの歌を贈る習慣があり、「君が代」はその年寿を祝う歌だったのだ。

細かい石がくっついて、いつしか大きな岩となり、さらに表面に苔がびっしり生えるまで、ということだが、随分長い年月を要するだろう。ひょっとすると両生類が爬虫類に進化するほどの年月かもしれない。そんなに長生きできるか、とツッコミを入れたくなるほどだが、当時の人の豊かな感性の表れである。

この歌は『古今和歌集』以後も様々な文献に現れる。『新撰和歌集』『和漢朗詠集』などだ。さらに江戸時代になると浄瑠璃(じょうるり)、小唄、長唄などにも取り入れられていく。まあ、おめでたい歌だから人気があったのだろう。

そして、明治維新の後、イギリスの軍楽隊長だったJ.W.フェントンから国歌の必要性を説かれた薩摩藩砲兵隊長の大山弥助(後の元帥陸軍大将大山巌)は、当時薩摩で歌われていた薩摩琵琶歌『蓬萊山(ほうらいさん)』の中から「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼した。が、曲想が洋風でなじめず、宮内省雅楽課に再度依頼。結局、林広守が作曲し直し、F.エッケルトが編曲して現在の形になったと伝えられている。

明治維新の原動力であった薩摩の人々が明治政府の中枢を占めていたために、薩摩の歌が国歌になったのであろう。もし、備前岡山の侍たちが明治維新を主導していれば、「わたしゃ備前の岡山育ち、米のなる木をまだ知らぬ~」という歌が国歌になっていたかもしれない。

ところで、「君が代」はいかにもアジアンテイストでなかなか面白いが、一カ所だけ致命的な所がある。それは「さざれ石の」という箇所だ。「さざれ石」で一つの単語なのに、この曲では「さざれ」と「石」の間にフレーズの区切りが入ってしまっている。だから、「さざれ」と「石」の間で息継ぎをして歌う人が後を絶たない。しかし、言葉の意味を考えると、「さざれ」と「石」の間で息継ぎは厳禁である。「さざれ石」と一息で歌わなくてはならない。が、この箇所に変なフレーズの切れ目があるために歌いづらいことこの上ないのだ。できれば作曲し直すか、歌詞を変更したいところだが、いまさらどうにもならないだろう。

それはともかく、「君が代」の「君」を天皇とした明治政府によって「君が代」は天皇を中心とする帝国主義国家の運営に利用された。第二次世界大戦後、今度は「君」とは国民を指すと定義が改められたそうだが、もともと誰を指してもよい言葉なので、あれこれ議論すること自体不毛だ。

にもかかわらず、毎年何かと物議を醸し続けている。裁判沙汰になっている事例も少なくない。恐らく、「君が代」が単なる年寿の祝い歌だという認識が広まっていないからではないだろうか。ちゃんと認識されていれば、そもそも争点などないのだから問題など起こりそうもないではないか。もっとも、帝国主義に利用された曲という事実が許せないという人々がいることはいかんともしがたいが…

とにかく、小学校で英語なんか教える時間があれば、もっと歴史を教えた方がよいと思うのは私だけだろうか。
(写真は京都・下鴨神社のさざれ石)

 

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ナンバーワン

ピカソ作『ドラ・マールの肖像』

私が嫌いな言葉に「オンリーワン」というのがある。確かジャニーズ所属の歌がヘタクソな中年アイドルグループが歌ったヒット曲の影響で信者が増えた言葉だ。他人と競争なんかしなくていい、自分は世界にたったひとりの存在なんだから、それだけで意味がある。自分にしかできないことをせいいっぱいやればいい。それが個性だ。個性を尊重して伸ばしてあげよう。そんな風潮が一時我が国を席巻した。

はっきり言おう。本当に価値があるのは「ナンバーワン」だ。

競争のないところに進歩はない。我々が現在までのところ進化の頂点に立っているのも途方もない競争に勝ち残ったからに他ならない。生物は競争して生き残ってきたのだ。競争は生命が背負う宿命といってもよい。

そもそも、我々が誕生した陰では、おびただしい数の精子が競争に敗れて死滅している。たったひとつの競争に勝った精子が卵子と受精してヒトになったのだ。つまり、生まれてきただけで既に我々は勝者なのだ。確率にするとものすごく低い数字になるだろう。だからこそ、この世に生ある者は全て勝者であり、生き続ける限り、競争に勝ち続けなくてはならないのだ。

我が国では毎年3万人もの人が自殺するが、こういう人たちは自分たちが勝者だということに気づいていないらしい。生まれてきただけで既に勝者なのだから、もっと自信を持てばいいのに…

とある小学校の運動会では、敗者を作らないために全員手をつないで同時にゴールさせたりするところもあると聞く。中学・高校でも模擬試験の学校別の成績を公表することに頑強に反対するところが多いらしい。

一体、この国の教育者たちは「切磋琢磨」という美しい日本語を忘れたのだろうか。

スポーツでも学力でも大いに競争すればよいではないか。負けた者は悔しいかもしれない。だが、だからこそ精一杯努力するのではないのか。悔しさをバネにして、後に大成した人物は山ほどいる。

たとえ負けてもベストを尽くせば何かしら得るものがあるはずだ。ベストを尽くした敗者なら勝つことの意味がよくわかる。そして「ナンバーワン」への道を再び歩き出す…

「オンリーワン」になることは簡単だ。例えば、誰にも理解できない言語を作ってひとりでしゃべればいい。世界にたったひとりだけが話す言語だ。その人物は「オンリーワン」だが、誰からも相手にされないだろう。これはギャグではなく、「オンリーワン」の本質を物語っている。「オンリーワン」とはこの世でたったひとつ、つまり共通認識とか仲間とかそんな繋がりのないことを意味する。「独創」と言い換えれば少しはましに聞こえるが、やはり理解できないという点では同じだ。本来、独創的などということはありえない。例えばピカソの絵が独創的だと評したところで、多くの人々に理解されている以上、何らかの共通認識の上に立つ芸術である。もし、本当に独創的なら誰からも理解されず、美術館に飾られることもないはずだ。

脳科学者の言を待つまでもなく、我々の脳はみな基本的に同じだ。「オンリーワン」などではない。アインシュタインの脳も私の脳もヒトとして同じなのだ。結局個性というのは養老孟司が言っているように「顔」なのである。ひとりひとり顔が異なるわけだから、既に十分個性的だ。それ以上、必死になって個性的であろうともがく必要などない。どんなに個性的であろうとしても、どんなに独創的であろうとしても、世の中で認められるためには人類の共通認識の上に立つ以外ないのである。

私はこの共通認識の上で「ナンバーワン」になった人々に対し、賞賛の念を禁じ得ない。

 

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国際人?

地球

最近、テレビでよく子供のための英会話学校のCMが流れている。流暢に英語を話す子供を見せて親に入会を促すのが目的だ。バカな親は英語が話せれば子供の将来が明るいと勘違いしてしまう。文部科学省も同様に早期教育による英語学習を猪突猛進のごとく推進している。まあ、私の勘では将来大きな弊害となって後悔する日がくるだろう。

なぜか。英語が話せても内容がなければ、それはただの「英語が話せるバカ」でしかないからだ。

一例を示すと、私のある知り合いは五カ国語に堪能なのだが、話す内容は常に猥談である。諸外国人に対して、五カ国語で卑猥な話をして盛り上がっている。要するにただのバカだ。

問題は話す中身であって言語ではない。日本語しか話せなくても、その内容が示唆に富み、得られるところが大であるならば、その人物は国際的に高く評価される。どうも文部科学省をはじめ、最近の日本人の多くは、英語が話せることが国際人への第一歩だと勘違いしているようだ。国際人というのは国際的に通用する、価値のある人物という意味であり、外国語に堪能であるという意味ではない。はっきり言って、英語を必要とする日本人は、通訳や翻訳をする人や英文学愛好家、英語教師、研究者くらいではないだろうか。

政治家であれ、国際的な企業であれ、必要なら通訳を雇えばよい。特に政治のような極めて重大な仕事なら、専門家でない政治家が下手に英語を話すのはむしろ危険だ。かつて、森総理大臣がクリントン大統領に「お元気ですか?」のつもりで間違って「あなたは誰だ?」と言ってしまった。優しいクリントン大統領は状況を理解した上で「私はヒラリーの夫です。」とウイットを効かして返答したのだが、それに対して森総理は「私もです。」と答えてしまったという驚愕のエピソードがある。これほどひどくはないにしても、ちょっとしたニュアンスの誤りで、外交に大きな障害が生じた例は枚挙にいとまがない。だからこそ、専門の通訳が必要なのだ。状況はビジネスの世界でも同じである。

というわけで、国際舞台で本当に必要な英語力は専門家の領域だ。一般国民はわざわざ国際人など意識して英語に取り組む必要などないではないか。それよりも、まず正しい日本語をしっかり身につけるべきだろう。

最近では、政治家はおろか、テレビのアナウンサーや新聞記者まで間違った日本語を使いまくっている。例えば、「姑息な」という言葉だが、これは「一時しのぎの」という意味である。だが、「卑怯な」という間違った意味で使っている人があまりにも多い。また、「檄を飛ばす」という言葉だが、これは「自分の主張を訴え、賛同や決起をうながすための檄文と呼ばれる文書を通達する」という意味であり、「ハッパをかける、激励する」という意味ではない。それから、「豹変する」というのは褒め言葉である。豹の毛が生え変わると美しくなることから、それまでの過ちを改めて再出発するという清々しい意味なのだ。それなのに「手のひらを裏返すように、裏切る」などという大間違いの意味で使う人が後を絶たない。

とにかく、テレビのアナウンスや新聞記事が間違っていては、人々は知らず知らずのうちに間違った日本語に慣れてしまう。この点、マスコミの責任は重大だが、それだけの覚悟と資質をもった人材がマスコミ界で枯渇しつつあるようだ。間違いがいつまでたっても少なくならないということは、アナウンサーや記者を監督する立場の上司でさえ、間違いを正す能力がないことを意味している。

そもそも、日本人はもっと国語辞典と親しくなるべきだ。私のような国語の専門家でない者でさえ、国語辞典を5、6冊用意しているし、類語辞典や句読点辞典まで揃えて、日々勉強している。日本人として正しい日本語を使いたいからだ。日本人としてのアイデンティティはなんといっても日本語ではないか。これがしっかりしてこその国際人だと思う。

ちなみに、日本で一番売れているという噂の三省堂の「新明解」という国語辞典はお薦めできない。上記の間違った日本語を新しい使用法として、徐々に認めていく方針だからだ。間違った使用法を流布しかねない「新明解」に私は断固異議を唱える。確かに言葉は時代とともにその意味が変わっていくものだが、やはり失いたくない原義というものもある。幸い他の辞書はそこまで過激ではない。私のお薦めは大修館書店の「明鏡」だ。

さて、私は日本語の他に英語やフランス語、イタリア語などを話すが、外国人の観光客に出会っても日本語で通す。相手がよほど困らないかぎり外国語は話さない。ここは日本だ。私だって、外国に行けば母国語が通用しないことぐらい嫌というほど知っている。だから、外国人だって、日本では母国語が通用しないとあきらめてほしいのだ。世界中どこへいっても母国語が通用すると勘違いしている英米人に会うと腹が立って、とことん日本語で押し通してしまう。日本へ来るのなら、日本語を勉強してから来いというのが私の主張だ。

ということは、日本で暮らしている限り、英語なんか必要ないではないか。私のように諸外国の文献を読んで知識を吸収したいと思っている者は別として、ごく普通の生活をしている日本人は英語など不要だ。それなのに、全国民に英語教育を課している文部科学省の意図は何なのだろう。

私が文部科学大臣なら、大学入試から英語を除外するのだが…

 

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