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国際人?

地球

最近、テレビでよく子供のための英会話学校のCMが流れている。流暢に英語を話す子供を見せて親に入会を促すのが目的だ。バカな親は英語が話せれば子供の将来が明るいと勘違いしてしまう。文部科学省も同様に早期教育による英語学習を猪突猛進のごとく推進している。まあ、私の勘では将来大きな弊害となって後悔する日がくるだろう。

なぜか。英語が話せても内容がなければ、それはただの「英語が話せるバカ」でしかないからだ。

一例を示すと、私のある知り合いは五カ国語に堪能なのだが、話す内容は常に猥談である。諸外国人に対して、五カ国語で卑猥な話をして盛り上がっている。要するにただのバカだ。

問題は話す中身であって言語ではない。日本語しか話せなくても、その内容が示唆に富み、得られるところが大であるならば、その人物は国際的に高く評価される。どうも文部科学省をはじめ、最近の日本人の多くは、英語が話せることが国際人への第一歩だと勘違いしているようだ。国際人というのは国際的に通用する、価値のある人物という意味であり、外国語に堪能であるという意味ではない。はっきり言って、英語を必要とする日本人は、通訳や翻訳をする人や英文学愛好家、英語教師、研究者くらいではないだろうか。

政治家であれ、国際的な企業であれ、必要なら通訳を雇えばよい。特に政治のような極めて重大な仕事なら、専門家でない政治家が下手に英語を話すのはむしろ危険だ。かつて、森総理大臣がクリントン大統領に「お元気ですか?」のつもりで間違って「あなたは誰だ?」と言ってしまった。優しいクリントン大統領は状況を理解した上で「私はヒラリーの夫です。」とウイットを効かして返答したのだが、それに対して森総理は「私もです。」と答えてしまったという驚愕のエピソードがある。これほどひどくはないにしても、ちょっとしたニュアンスの誤りで、外交に大きな障害が生じた例は枚挙にいとまがない。だからこそ、専門の通訳が必要なのだ。状況はビジネスの世界でも同じである。

というわけで、国際舞台で本当に必要な英語力は専門家の領域だ。一般国民はわざわざ国際人など意識して英語に取り組む必要などないではないか。それよりも、まず正しい日本語をしっかり身につけるべきだろう。

最近では、政治家はおろか、テレビのアナウンサーや新聞記者まで間違った日本語を使いまくっている。例えば、「姑息な」という言葉だが、これは「一時しのぎの」という意味である。だが、「卑怯な」という間違った意味で使っている人があまりにも多い。また、「檄を飛ばす」という言葉だが、これは「自分の主張を訴え、賛同や決起をうながすための檄文と呼ばれる文書を通達する」という意味であり、「ハッパをかける、激励する」という意味ではない。それから、「豹変する」というのは褒め言葉である。豹の毛が生え変わると美しくなることから、それまでの過ちを改めて再出発するという清々しい意味なのだ。それなのに「手のひらを裏返すように、裏切る」などという大間違いの意味で使う人が後を絶たない。

とにかく、テレビのアナウンスや新聞記事が間違っていては、人々は知らず知らずのうちに間違った日本語に慣れてしまう。この点、マスコミの責任は重大だが、それだけの覚悟と資質をもった人材がマスコミ界で枯渇しつつあるようだ。間違いがいつまでたっても少なくならないということは、アナウンサーや記者を監督する立場の上司でさえ、間違いを正す能力がないことを意味している。

そもそも、日本人はもっと国語辞典と親しくなるべきだ。私のような国語の専門家でない者でさえ、国語辞典を5、6冊用意しているし、類語辞典や句読点辞典まで揃えて、日々勉強している。日本人として正しい日本語を使いたいからだ。日本人としてのアイデンティティはなんといっても日本語ではないか。これがしっかりしてこその国際人だと思う。

ちなみに、日本で一番売れているという噂の三省堂の「新明解」という国語辞典はお薦めできない。上記の間違った日本語を新しい使用法として、徐々に認めていく方針だからだ。間違った使用法を流布しかねない「新明解」に私は断固異議を唱える。確かに言葉は時代とともにその意味が変わっていくものだが、やはり失いたくない原義というものもある。幸い他の辞書はそこまで過激ではない。私のお薦めは大修館書店の「明鏡」だ。

さて、私は日本語の他に英語やフランス語、イタリア語などを話すが、外国人の観光客に出会っても日本語で通す。相手がよほど困らないかぎり外国語は話さない。ここは日本だ。私だって、外国に行けば母国語が通用しないことぐらい嫌というほど知っている。だから、外国人だって、日本では母国語が通用しないとあきらめてほしいのだ。世界中どこへいっても母国語が通用すると勘違いしている英米人に会うと腹が立って、とことん日本語で押し通してしまう。日本へ来るのなら、日本語を勉強してから来いというのが私の主張だ。

ということは、日本で暮らしている限り、英語なんか必要ないではないか。私のように諸外国の文献を読んで知識を吸収したいと思っている者は別として、ごく普通の生活をしている日本人は英語など不要だ。それなのに、全国民に英語教育を課している文部科学省の意図は何なのだろう。

私が文部科学大臣なら、大学入試から英語を除外するのだが…

 

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