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発想のための環境

カフェで発想が生まれる?

今朝、iPhoneでTIME誌のモバイル版を読んでいたら、面白い記事を見つけた。なんでも、孤独と静寂は革新的なアイデアの誕生を阻害するといった内容だ。

この記事は、適度な雑音の中で考えることが斬新な発想を生むという研究結果を報告している。具体的には、カフェがお勧めだそうだ。カフェでは周りで人々が会話をし、バリスタがカプチーノやフラペチーノをせっせと作っている。そういうおだやかな雑音が革新的なアイデアを生む環境を提供してくれるらしい。

本当だろうか。

日本では、古来より考え事をするには、人里離れた山奥にこもり、ひとり静かに座禅でも組んで悟りを待つ、といったイメージがある。事実、そうやって孤独と静寂の中で独創的なアイデアを生み出した偉人も少なくない。

さて、真実はどちらなのか。

確かに、私もこの日記を書いていて、ネタが全く思い浮かばないことがある。ひどいときは、ひとり静かに机の前に座って、三時間たっても四時間たっても何も書けないこともある。これなど、孤独と静寂が発想の邪魔をしている状態なのかもしれないな。

その一方で、病院の待合室でネタが浮かんだり、街をぶらぶら歩いていて何かひらめいたりすることもある。う~む、TIME誌の記事にも一理ありそうだ。

恐らく、考えている内容にもよるし、その時の精神状態もあるだろう。煮詰まっているときは、それこそカフェにでも出掛けた方が気分転換になるだろうし、ひとりで集中した方が成果が出るときもあるだろう。

ちなみに、今日の夕方、この効果を試してみようとカフェに出掛けた。仕事と勉強の能率を格段に向上させる方法論をカフェで考えてみたのだ。だが、上手くいかなかった。残念ながら、隣の席に若い女性のグループがいて、彼女たちの会話が相当うるさかったのだ。やはり、「おだやかな雑音」というのがミソである。カフェの客の入りや客層などは毎回異なるわけだから、なかなか革新的なアイデアとやらを生む環境には出会えないのではあるまいか。

待てよ。もしかするとカフェもヨーグルトのように、ひとりひとりと相性があるのかもしれないな。自分にとってアイデアを生むのに適したカフェというのが案外どこかにあるのかもしれない。

よし、暇ができたらカフェ巡りをしてみよう。

 

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顔文字

顔文字

私は顔文字が苦手だ。携帯文化かネット文化か知らないが、よくまあ、あんなわけのわからない文字でコミュニケーションを取ろうとするものだ。理解に苦しむ。

などと書くと、今時の若い人たちからはオジン扱いされそうだが、これは年齢とは無関係の問題である。私と同世代の人たちでも顔文字を多様する人は少なくないのだ。問題は、私が顔文字に不快感を覚えるということである。

はっきり言おう。私は顔文字を多用する人は嫌いだ。

まあ、私も社会人だから、あからさまに不愉快な表情を見せたり、不満を述べたりはしない。顔文字付きでメールが来ても、ごく普通に対処する。が、心の中では軽蔑していることが多い。あっ、言っちゃった。

こんなことを書くと、また敵が増えるかもしれないし、私に悪意を持つ人も出てくるかもしれないので本当は書きたくないのだが、黙っているのもストレスが溜まる。というわけで今日は思い切ってカミングアウトした次第だ。

私としては日本語くらい美しい言語はないのだから、顔文字など使わず、もっと日本語の表現を磨いてほしいと思う。ちゃんと使えば、日本語でしっかりコミュニケーションが取れるはずだ。顔文字でニュアンスや心情を補ったり、相手に推し量ってもらおうというのは、言語能力の欠如を露呈しているようにしか思えない。

特に気に入らないのが、顔文字を多用する男だ。女性ならまだ許せるのだが、男で顔文字を使う奴にはうんざりする。私の部下ならサッサとクビにするところだ。特に、顔文字がオシャレだとか、ナウいなどと勘違いしている男には吐き気がする。

というわけで、またしても自分勝手な日記を書いてしまったが、まあいいだろう。許す。

とにかく、きびだんご王国の辞書に顔文字はない。

 

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眠れない夜に

眠れない夜に

なかなか眠れない夜というのがときどきある。皆さんはそんな時、どうしているだろうか。

私の場合、以前は数学の問題を解いていた。それから詰め将棋と格闘していた時期もある。その後、チェスの問題をやったり、読書をしたりといろいろと工夫してきた。で、今はというとピアノを弾いている。

私の部屋にはピアノが三台あるのだが、そのうちの二つは電子ピアノだ。これは音量をかなり落とすこともできるし、ヘッドフォンに切り替えれば外部に音を漏らさないようにもできる。だから、真夜中に弾いていても誰の迷惑にもならないのだ。

別に上手に弾けるわけではないのだが、気に入った曲を弾いていると心が和む。そうして一、二時間ほど弾いているうちに本格的に眠くなってくるというわけだ。ピアノなんか弾くと頭が冴えてしまい、かえって眠れなくなるのではないかという気もするのだが、私の場合なぜか眠くなる。まあ、あまり本気で弾いていないということだろう。

ところが、最近面白い現象に気がついた。眠くなってからの方が上手く弾けるのだ。これはおかしい。本来、音楽は集中してやらなくては上手くいくはずがないのだが、どういうことだろう。いろいろ考えてみたが、おそらく身体の余計な力が抜けるせいではないだろうか。眠いと力が入らないのだ。だから音楽的にはダメでも、技術的には上手く弾けたりするのではないかと思う。

それはともかく、寝る頃になって成果が出てくると、寝るのがもったいなくなってしまう。結局、さらに弾き続けて、ますます床に入るのが遅くなるという悪循環にはまってしまった。

まずい。このままでは慢性的に睡眠不足になってしまうではないか。数学、将棋、チェス、読書、ピアノと眠れない夜の暇つぶしを工夫してきた私だが、そろそろ次の方策を講じなくてはなるまい。

だが、今のところ何も思いつかない。音楽でも聴くか? いや、だめだ。いつだったか、ある眠れない夜に、とあるCDをかけたところ、その音楽が気に入ってしまい、何十回も繰り返し聴いているうちに徹夜してしまった苦い経験がある。聴いているうちに寝てしまえるのならよいのだが、私はつい聴き入ってしまうのだ。

というわけで、何かよい方策を見つけなくては。

 

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Vサイン女子

五本指

ずっと前から気になっていたのだが、ネットでブログやらSNSの投稿やらの画像を見ていると、やたらとVサインをして写真に納まっている女性が多い。中には何枚も連続して常にVサインをしていたりする。あれは一体何だろう。

はっきり言って気持ち悪い。私だけかもしれないのだが、カメラを向けると反射的にVサインをする女性は生理的に受け付けない。たまになら許せるのだが、ほぼ毎回反射的にVサインをする女性には軽薄な印象を抱いてしまう。

実は随分前からこのように感じていたのだが、こんな事をカミングアウトすると世の中の多くのVサイン女子を敵に回してしまうかもしれないし、もし私の感覚が世間から大きくズレていた場合、惨めな思いをするかもしれないので黙っていたのだ。

しかし、今日は思い切って告白した次第である。私と同じように感じている同輩が大勢いることを心から祈る。それだけだ。

そもそも、Vサインというのは勝利のサインではないか。別に勝利したわけでもなんでもないのに反射的にVサインというのは意味がない。しかも、カニみたいで滑稽ではないか。せっかく五本も指があるのだから、わざわざ二本に減らして写真に写ることはあるまい。

それにしても、反射的にVサインをしてしまう女性が多いという事実は、ひょっとして、モデルとなった有名人がいるのではないだろうか。あるいは女性誌か何かでそういうポーズが流行っているのかもしれない。

とにかく、Vサイン女子を見ると、みんな同じポーズなので個性が全く感じられない。最近の日本人の傾向かもしれないが、大勢が同じ商品を買ったり、同じアーティストに群がったり、とにかく個性が認められない。これでは、まるでクローン人間のようではないか。

ちなみに、ネットで検索しても、まだ「Vサイン女子」という言葉は誕生していないらしい。ということは、この日記が元祖かもしれない。

そんなわけで、皆さん、Vサイン女子という言葉を流行らせてください。あるいはピースサイン女子でも構いません。
(画像は、まだVサインを知らない健全な女の子) 

 

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英語でコミュニケーション

コミュニケーション

最近、暇があると英語で書かれたエッセイばかり読んでいます。著者の考え方はもちろん、著者の生まれ育った国の文化や習慣なども垣間見ることができ、興味がつきません。

しかし、一番驚いたのは表現力です。といっても文学的な意味ではありません。私が衝撃を受けたのは、全くといっていいほど難しい熟語が出てこないことです。日本では大学入試に備えてあれほど詰め込むことを要求されている熟語が大して出てきません。単語も特に難しいものは滅多に出くわしません。それでいて、実に高度な内容を見事に伝達しているではありませんか。これはまさに目から鱗の感があります。

日本の大学入試では、学者が書いた文章や専門誌の論説みたいなお固い内容が多く、単語も結構難しいものが出てきます。熟語もたくさん記憶していなければ解けない問題も出題されます。しかし、そんな高度な単語や熟語を知らなくても立派に大人の文章が書けるのです。これはちょっとショックを受けました。

でも、考えてみれば当然かもしれません。私が今書いているこの日記でも、特に難しい単語や熟語は使っていません。「隔靴掻痒」などという熟語を知らなくても、「じれったい」とか「もどかしい」などと表現すれば済みますし、「四面楚歌」なら「誰からも助けてもらえない」とか「味方がいない」などと書けばよいわけです。別に難しい単語や熟語を使わなかったからといって文章の質が落ちるわけではありません。それどころか、かえって分かりやすい文章になるのではないでしょうか。

というわけで、専門用語を要する専門分野の論文でもない限り、極めて平易な語彙で社会的に通用する文章が書けるのです。問題は内容であって語彙ではありません。

となると、日本で行われている英語教育はちょっとピントがずれているような気がします。あそこまで膨大な語彙力を求める必要など、どこにもないように思うのです。新しい単語や熟語を増やすより、平易な語彙でどこまで表現できるかに挑戦した方が学生のためになるというのが私の結論です。実際、英語圏の社会人たちは平易な語彙で高度なコミュニケーションを行っているわけですから。

最近では、小学生から英語を必修科目にしているみたいですが、平易な語彙で済むようになれば、いままでどおり中学生から始めても全く問題ないように思えます。もちろん、子供の頃から始めた方が発音などは有利かもしれません。しかし、完璧な発音で「ママ、おなか減った」などと言えたとして、何の役に立つのでしょう。それよりは、多少発音に難があっても、社会の役に立つ言動が取れた方がはるかに意味があります。

要は、言葉を使って伝える内容が大切なのです。本当に大切な内容が伝わるなら、語彙が平易でも、発音がイマイチでも問題にはなりません。

日本の英語教育はもっと本質的なところに目を向けるべきではないでしょうか。

 

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