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文化証

文化を守れ

今、大坂で橋本市長が大坂市音楽団に対して自立を促している。最初この話を聞いたとき、文化に対して冷たいのかなと思ったが、同音楽団の経費を知って驚いた。なんと音楽士38名の小さな組織に人件費だけで年間3億6500万円(2012年度予算)というではないか。これは高すぎる。私なら、この規模の楽団なら年間1億円ももらえればなんとか運営してみせる。どう考えても経費の無駄遣いだ。橋本市長が異を唱えるのも十分うなずける。

ところで、みなさんはコンサートの適正価格をご存知だろうか。実は、有名でもない普通の音楽家の室内楽コンサートでも、一万円から数万円くらいもらわなくては採算が合わないのだ。でも、実際には3000円から4000円くらいが相場だから、実のところコンサートは基本的に赤字である。かといって、適正価格にすればチケットが売れない。これがクラシック関連のコンサートが抱える問題なのだ。オペラなど、莫大な経費がかかるコンサートとなると、もはやチケット収入で黒字にすることは不可能と言っていいだろう。

本当は、普段払っているチケット代が破格の安値であるということに人々が気づいて感謝すればよいのだが、そのような人はほとんどいない。それどころか高いと思っている人が多いのではないだろうか。バチ当たりどもめ!! 5000円以下のチケットなど本当はタダ同然なのだ。

こうした事実と現実とのギャップを周知させてこなかったのは音楽界の怠慢かもしれないが、年々文化予算が削られる今日、このままでは多くの音楽団体が消えてゆくに違いない。かといって、今更、チケット代の標準価格を全国一律に一万円程度に引き上げても観客は納得しないだろう。しかし、今のままではコンサートは赤字のままである。レコード会社が売り出しているアイドル歌手などは、コンサートはプロモーション活動の一環であり、コンサートから利益が出なくても、その後のCDの売り上げや関連グッズの売り上げで利益が確保できる。そうしたうまい話がないのがクラシック界の辛いところなのだ。

そこで、私は大胆な提案をしたいと思う。文化税の導入だ。国でできなければ、県や市単位で条例を制定して行えば良い。月々の収入から数百円程度収めてもらうのだ。給料から天引きすればよい。そして、文化証を発行する。このカードを提示すると、コンサートや美術展、その他様々な文化事業のチケットが3割負担で手に入るという仕組みだ。要するに保険証のパクリである。

もちろん、何でもかんでも適用されるわけではない。免許を取得していないニセ医者のところで保険証が使えないように、文化証も認可を受けた催し物に限って有効とする。出演者のギャラが極端に高いコンサートや不自然に高い経費を見積もっている美術展などは審査段階で振り落とし、認可を与えない。そうしなければ、残りの7割に充填する税金の意味が不透明になるからだ。認可の基準は、期待される税収から逆算して規模と数を割り出し、その範囲に収まらない数の企画が申請された場合は、例えばチケット代の安い方から優先するなど、なんらかの公平な基準を設けておけばよい。

あるいは、医者の診療報酬のように、文化証適用コンサートにおける演奏家の演奏報酬についても細かく規定し、規定以上に暴利をむさぼれないようにすればいいのではないだろうか。税金を使う以上、納税者が納得する方策を模索しなくてはならない。

とにかく、これならコンサートは本来の適正価格を維持でき、観客はいままでどおりの金額でチケットを買うことができる。チケットの販売状況を精査して、何年かに一度3割負担を2割に下げたり、4割に上げたりして調整してもよい。また、高齢者は1割負担にするとか、いろいろと工夫することもできるだろう。これならば、認可を競って質の高い催し物が増えるだろうし、観客動員数も増えるにちがいない。

クラシックを例に説明したが、ポップスなどでも芸能プロダクションに属さないアマチュアやフリーのミュージシャンなどは、もちろん大いに援助すべきである。美術や演劇なども含め、予算の許す範囲で広く文化活動を支援すればいいのだ。

こうして、岡山は全国有数の文化圏となるのである。えっ? 文化に興味のない人からも税を徴収するのかって? もちろんだ。健康で一生病院に行かない人からも保険料を徴収しているではないか。同じ理屈である。

あとは、これを実行する勇気のある政治家が現れるかどうかだ。

 

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オーケストラの指揮者

フルトベングラー
みなさんはオーケストラの指揮者を見ていて、一体何をやっているのか疑問に思ったことはないだろうか。私は子供の頃からずっと疑問に思っていた。大勢の楽団員の前でひとりだけ客席にお尻を見せている。何やら腕を振り回しているようだが、よくわからない。中には相当滑稽な動きをする指揮者もいるが、オーケストラは淡々と演奏している…

実は、一口に指揮者といってもやっていることは千差万別なのだ。楽器奏者なら、楽譜を見てそこにある音符を音にする。音にする仕方はいろいろだが、基本的に弦楽器なら弓で弦をこするし、管楽器なら管の中に息を吹きかける。とまあ、音楽的なことは置いといて、やっていることは素人にも理解できる。

ところが、指揮者だけはよくわからない。棒を振っているが、楽譜には振り方が書かれているわけではなく、指揮者が自分で工夫しなくてはならない。入門書には拍子の振り方が解説されているが、そんなものを振り続けるほどバカバカしいことはない。結局、何をどう振るかは指揮者個人にまかされているわけだ。

私が観察したところ、指揮者はひとりひとりやっていることがかなり異なる。オーケストラの交通整理をしている者もいれば、司令官のように命令している者もいる。身体で音楽の表情を表現している者もいれば、陶酔している者もいるし、耳に聞こえる音というものを目で見えるように表現して楽団員に示している者もいる。拍子をとっている者もいれば、踊っている者もいるし、楽団員に催眠術をかけている者もいる。

なんと、指揮者の仕事とは、なんでもアリの無法地帯なのだ。だからこそ、面白いのであろう。特に、いわゆる指揮法などというものが確立される前の指揮者が面白い。黎明期の指揮者たちは、自分たちの経験と勘で自由にやっていた。現代の指揮者からみるとテクニックがお粗末かもしれないが、出てくる音楽はまぎれもなく彼らのものであった。

一方、音楽大学に指揮科のある現代では、テクニックこそしっかりしているが、面白みのない指揮者が多くなった気がする。私は指揮科を出ていない指揮者が好きだ。指揮科を出ていない指揮者というと今では少数派だが、かつてはほぼ全ての指揮者がそうだった。昔は指揮者といえば、作曲家かオペラのリハーサル用ピアノ伴奏者を経験した者かに大きく二分されていたのだ。今のように音楽大学の指揮科を卒業してコンクールを受けて… といった流れではなかったのである。

私は、芸術というものは実は学校で学ぶものではないのではないかという気がしている。要するに世間で考えられているほどアカデミックなものではないと思うのだ。小説家も彫刻家も画家も作曲家もおよそ創作に関する芸術は独学でいいのではないだろうか。いや、そもそも学問というものは本来独学があるべき姿なのかもしれない。大学とは何かを教えてもらう場ではなく、自分で学び取る心構えのある者が集まる所ではないだろうか。自分で学び取る限り、大学に在籍しようと、独学であろうと大した違いはないと思う。ただ、大学にいれば、様々な資料がいつでも手の届く所にあるし、疑問を語り合う友や教師が大勢いるという点で有利だが…

しかし、いずれはひとりで学ばなくてはならない時が来る。私も大学を出ているが、本当に大切なことは社会に出てから学んだ。大学で学べることは人生においてはほんの僅かでしかない。

さて、指揮者は創作者か演奏者か。長い間議論され、いまだ決着がつかない問題である。厳密に言えば作曲家こそ創作者であり、指揮者は演奏者にすぎない。だが、やり方によっては指揮者にも創作者の世界に踏み込む余地があろう。

この辺り、目の前の指揮者が音楽というフィールドのどこに立っているのかを見定めるのがコンサートの醍醐味のひとつである。それはすなわち、その指揮者がオーケストラを前に何をしているのかということでもあり、音楽をどう生きているかということでもある。

指揮者というのは、特別な存在なのだ。

 

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