最近、時代劇を見ていてふと暦に気を取られた。
今でこそ我々は西洋から太陽暦を取り入れて生活しているが、かつては太陰暦を使用していた。太陰暦というのは言うまでもなく月の満ち欠けを周期として暦を刻む方法だ。我が国では一月、二月、三月… と「月」という単位を使っているが、これはもともとひと月を月の満ち欠けで刻んでいたからである。ちなみに、「日」というのは太陽のことで、一年365日というのは、一年に365回太陽が昇って沈むということを表している。
で、月の満ち欠けの周期がひと月であるから、毎月第一日は必ず闇夜である。三日目に細い月が現れ(これを三日月という)、15日目に満月(これを十五夜、または望月という)となり、最後の日(これを晦日という)に向けて月が欠けてゆく。ちなみに月の最後の日が晦日であるから、一年の一番最後、すなわち12月31日を大晦日と呼ぶのである。
少し説明が長くなった。これくらいは小学校で教えてほしいのだが、なぜか我が国では自国の伝統や文化をそっちのけで英語教育に力を入れている。私が文部科学大臣ならちゃぶ台をひっくり返してやるのだが…
それはともかく、時代劇でなぜか一日に月が出ていたり、三日でもないのに三日月が出ていたりすると私は混乱してしまうのだ。確かに我々は歴史事項を西暦で学ぶ。しかし、時代劇はビジュアルも大切だ。本能寺の変なども西暦ではなく、天正十年六月一日(あるいは二日未明)としてくれなくてはピンとこない。もちろん、月初めだから闇夜でなくてはおかしい。当然、真っ暗闇の演出でなければならないのだが、意外と明るかったりする。
ちなみに暦といえば、今年はマヤ文明の暦が話題になっている。なんでも12月23日でマヤ文明の暦が終わっているとのことで、もしや世界の終わりではなどと騒いでいるようだ。私の認識が正しければ、マヤ文明は太陽暦である。しかも、ヨーロッパのグレゴリオ暦よりもさらに正確で、まさに超がつくほどの優秀な暦だ。それほど優秀な暦を作ったマヤ文明がなぜか2012年12月23日で暦を終わらせているところがミステリーなのだろう。
ミステリーも結構だが、私は暦の持つ文化的な意義に着目したい。現在は世界中どこでも同一のカレンダーで通用する。もちろんアマゾンの奥地などでは通用しない村もあるだろうが、普通に旅行する範囲の国々ではまず共通認識が通用する。しかし、本来はひとつひとつの国にオリジナルの暦があったはずだ。そしてそれはその国の文化や歴史と密接に関わっている。その国の暦を通して初めて見えてくる真実もあるにちがいない。
暦だけではない。あらゆる単位にその国の文化が宿っているのだ。例えば、戦国大名はその領地の大きさを百万石などと「石」で表すが、一石の米とは人間一人が一年間に食べる米の量である。つまり、百万石の大名は百万人を養えるということだ。ちなみに一石の米が取れる水田の広さが一反で、一反は当時ではおよそ360坪(時代によって異なる)だから、一坪で人間一人の一日分の米が取れることになる。このように単位は生活や文化と密接に関係しているのだ。その点、西洋では1メートルを子午線の四千万分の一と定めるなど、極めて合理的だ。 この辺りにも国や民族によって考え方や感じ方の違いが出ていて面白い。
こういった何気ない事柄の中に潜む文化や文明のエッセンスとでもいうものにもっと注目してよいのではないだろうか。
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