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世界的 ?

世界

私が大嫌いな表現に「世界的○○」というのがある。とにかく嫌いで、この表現を耳にすると思わず吐き気がするくらいである。

ところが、マスコミはこのフレーズが大好きならしく、毎日のように「世界的○○」といった表現を連発する。○○には音楽家や画家、彫刻家といった芸術家が入ることが多いが、その他にも登山家やスポーツ選手など多彩な活動をしている人々が登場する。

しかし、実態は世界的と言える人物などひとりもいないのだ。なぜなら、世界的と言うためには、ゴビ砂漠の真ん中でも、アマゾンの密林の奥地でも、ヒマラヤ山脈にある秘境の村でも、北極のエスキモーの間でも有名でなくてはならない。果たしてそんな人物がいるだろうか。

いつだったかテレビでとある日本人女性を「世界的ジャズシンガー」と紹介していた。だが、彼女は東京とニューヨークでしか活躍していない。この場合、「東京およびニューヨーク的」というのが正しい表現だ。百歩譲っても「日米的」である。断じて「世界的」などではない。それとも地球には日本と合衆国しかなく、その他の国は無視してもよいとでも考えているのだろうか。だとしたら、人権問題に発展する。

それはともかく、私の考えるところ、世界的に有名な人物と言えば、イエス・キリストくらいしかいないのではないだろうか。せいぜいこれにマホメッドとブッタを加えるのが関の山である。もっとも、彼らでさえ知られていない地域は確実に存在するのだが…

日本人は西欧文明にいまだにコンプレックスを感じているらしく、西欧で活躍する日本人にすぐ「世界的」という形容詞をつけたがる。例えばフランスで活躍する日本人ピアニストがいると、日本とフランスでしか活躍していなくても「世界的」と紹介するのである。

しかし、何度も言うように、「世界的」というならば、西欧だけでなく、アジアやオセアニア、アフリカなどでも活躍しなくてはならない。だが、こうした国々にはマスコミはあまり感心がないようである。例えば、ウガンダとカンボジアの二国で活躍するウガンダ人のピアニストがいても、日本のマスコミは「世界的ピアニスト」などとは紹介しないはずだ。

要するに、欧米中心の価値観が色濃く反映されていると言えるだろう。日本のマスコミが使う「世界的」という言葉は実質的には「欧米的」と置き換えて差し支えない。私がこの表現に嫌気がするのもまさにこれが理由だ。

ちなみに、フランスにはトルコ人の移民が多く、彼らの多くはケバブ・レストランを営んでいる。私はそれこそ何百回もケバブ・レストランで食事をしたのだが、トルコ人のオーナーで、モーツァルトやベートーベンを知っている人は非常に少なかった。名前さえ聞いたことがないと答えたトルコ人の移民がゴロゴロいて驚いたものだ。

そうなのだ。モーツァルトやベートーベンでさえ、まだ世界的とは呼べないのだ。これがこの惑星の現実なのである。ましてや、日本と欧米でしか活動していない音楽家が世界的であるはずがないではないか。要するにマスコミは騒ぎ過ぎなのである。

なぜ、騒ぎすぎるのか。それは、話題にするためである。視聴率も取れるし、マスコミ的に「おいしい」からだ。しかし、CDを売って儲けなくてはならないレコード会社ならわかるが、事実を客観的に伝えるのが使命のマスコミが人々を煽動してよいのだろうか。もちろんレコード産業がスポンサーになっている番組もあるだろう。だが、それにしてもえげつないと私は思う。

「世界的○○」と並んでよく聞く表現に「百年に一度の○○」とか「天才○○」といったものもある。しかしよく考えてほしい。本当に「百年に一人」の存在なら、その価値がわかる人も百年に一人くらいしか現れない。なぜなら一般人には想像もつかない才能の持ち主だからである。誰にでもすぐに理解できる程度の才能なら「百年に一度」であるはずがあるまい。つまり、その人物が「百年に一人」の存在かどうかは少なくとも数百年たってみないとわからないのだ。もし、ものすごいと世間で騒がれている人がいたら、その人物は実際にはそれほどではないと考えてまず間違いない。真に非凡な人物は、同時代の人々の理解を遥かに超えた存在であるはずだから、同時代の人々から簡単に認められるはずがないのだ。

だから、芸術家の場合、同時代の人々に認められてCDやチケットが売れまくっているという場合、実はそれほどでもないと疑った方がいい。バッハなどは生前の評価もイマイチで、死後100年近く忘れられていたし、モーツァルトも晩年はコンサートのチケットがたったの1枚しか売れずにキャンセルを余儀なくされたりした。そうなのだ。真の天才は同時代人の多くから正当な評価を受けることは稀なのだ。桁違いの天才を理解できるのは、同じく天才的な人物に限られる。そのような天才的な人物こそ、天才に対して正しい評価を下すのだが、天才は数が少ないため、正しい評価を積み上げるのに長い時間を要するのだ。

そうした長い時間を経て、例えばゴッホは天才だという評価が定まってゆく。そうすると、我々凡人もゴッホは天才だと当然のごとく口にするわけである。しかし、彼は生前自分の絵を1枚も売ることができなかったことを忘れてはならない。我々は彼と同時代に生きて、彼の天才を正しく評価できただろうか。

一般に、真の天才の価値が見抜ける人は、その人もまた天才である。今現在マスコミが天才だと褒めちぎる芸術家がいて、一般の人々からも広く天才であると認められているとしよう。もしその人物が本当に天才だったとしたら、おびただしい群衆が全員天才ということになってしまう。だが、そんなことは人類の歴史を振り返ってみて一度もなかった。多分これからもないだろう。だから、何かが間違っていると考えるのが普通だ。

マスコミに踊らされるのはもうやめよう。有名か無名か、テレビに出でいるか出ていないか、といった軽薄な基準ではなく、自分の五感で判断しよう。そして、「世界的」などという形容詞はどこかに捨てよう。今回は触れないが、グローバルなどという概念も幻想にすぎない。

人生にとって真に価値ある情報は自分の心と身体を使ってつかみ取るしかないと思う。

 

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