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鍵は頭の中に

かぎ

最近、名古屋市の河村市長の発言で、中国の南京市と名古屋市の関係がぎくしゃくしているようだ。しばらくしてほとぼりが冷めればよいが、もしかすると反日運動が大きくなるかもしれない。

いつも思うのだが、日本人も中国人もD.カーネギーの『人を動かす』を必読書とすべきだ。もしまだ読んだことがないという人は是非読んでもらいたい。読むのがおっくうだという人にはマンガ版もあるし、CD版もある。本当にためになる本なので強くお勧めする。

さて、この本に書いてあることだが、人間というものはみんな自分が正しいと思っている。だから、相手に非を認めさせようという努力は徒労に終わるだけでなく、場合によっては身の危険さえ招く。そうなのだ。今回の河村氏の発言とそれに反発する中国人の主張には解決策はない。

そもそも正しい歴史認識などという概念がおかしい。そんなものは存在しないのだ。歴史が人間の仕業である以上、必ず思惑が働く。戦争ひとつとっても勝者と敗者で語る歴史は別物だ。

そこで、私に提案がある。実はもう30年以上も前からの持論なのだが、歴史の授業で複数の教科書を用いるのだ。現在行われている教科書検定など廃止すればよい。そんな検定に縛られずに教師は自分の意志で教科書を選ぶ。ただし、複数だ。

つまり、日本の右寄りの教科書と左寄りの教科書でもよいし、日本の教科書と中国の教科書でもよい。あるいはアメリカやイギリスの教科書を用いてもよいし、いっそのこと3冊以上使ってもいい。

当然のことながら、同じ歴史事象でも、教科書によって記述がかなり異なることに気づくだろう。ある教科書にはこう書いてあるが、別の教科書にはそうは書いていない。なぜだろう。

そこで、大いに議論すればいい。これからはネット時代だ。教室の枠を越えて、複数の学校で議論してもよいし、海外の学生と議論してもいい。

大切なことは結論を得ることではない。国によって、学者によって、歴史というものの見方が異なるということを学ぶのだ。世の中には自分たちとは異なる考えの人々が大勢いるということを理解するのだ。それこそが歴史教育ではないだろうか。

私が学校で受けた歴史の授業では、教科書に書いてあることを事実として記憶することに青春の貴重な時間が費やされた。確実に記憶しておけば試験で高得点が取れる。そして受験に成功する。だが、それで歴史を学んだといえるのだろうか。

私の唱える歴史教育では、教科書に書いていることを事実として教えたりはしない。教科書の記述はあくまでもひとつの見方にすぎず、世の中にはいろんな教科書があり、様々な見方があるということを教える。そして、徹底的に議論をする。結論ではなく、暗記でもなく、深く考えるということ、これが私の目指す歴史教育だ。

私が文部科学大臣なら、複数教科書による歴史の授業を整備する。教科書代がかさむようなら、経費を補うために、教科書に予備校や大学の広告を載せればよい。それが資本主義ではないか。

とにかく、記憶することではなく、考えることが何より大切なのだ。記憶はコンピュータに任せておけばいい。人間の脳は考えるためにある。

紛争や憎しみを乗り越える鍵は、我々の頭の中にある。それはパンドラの箱を封印する鍵でもあるはずだ。

 

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