きびだんご王国 | 桃太郎伝説ときびだんごについて、岡山の有志が集まって楽しく語るサイト

きびだんご王国 桃太郎伝説

ハードボイルド

ハンフリー・ボガート

ハードボイルドというジャンルは日本でも定着しているように思えるのだが、どうもその意味するところを間違って受け止めている人が多いようだ。ハードという言葉から、激しい暴力シーンや壮絶な銃撃戦、また、ボイルドという言葉から、熱く煮えたぎるギラギラした男臭い主人公を想起する人が少なくない。

だが、本来ハードボイルドにそんな意味はない。

ハードボイルドは、アガサ・クリスティーに代表される旧来の推理小説に対するアンチテーゼとして生まれた。クリスティー型の推理小説を私は「大団円型」と呼んでいる。物語の最後に名探偵が登場人物を集めて謎解きを披露するという展開だ。クリスティーでは私立探偵エルキュール・ポアロ(フランス人と思っている人が多いが、ベルギー人である)が最後に全ての謎を解く。ポアロは自身の最後の事件でさえ、物語の最後の最後に自らの遺書で死後に謎解きをする徹底ぶりである。日本でもこのパターンは踏襲されていて、横溝正史の金田一耕助シリーズがまさに典型である。近年では『名探偵コナン』がそうだ。

こうした従来の推理小説は推理を楽しむという点では申し分ないのだが、リアリティに欠けると異議を唱える人たちが出現した。現実の世界では、名探偵の謎解きを待つまでもなく、途中で謎が解明されたり、あるいは最後まで解明されなかったり、さらには探偵が事件の真相を闇に葬るといったことも起こりうる。そうしたリアリティを追求し、必ずしも謎解きに重きを置かず、むしろ登場人物の心情や背景描写に力を入れることにより、推理小説でありながら、純文学的な小説により近い内容を目指してはどうかという動きが起こった。これがハードボイルドというジャンルなのである。私はそう理解している。

このジャンルを確立した作家は、なんといってもダシール・ハメットであろう。彼の『マルタの鷹』は永遠に記憶されてよい。そして、ハードボイルドを不動の地位に押し上げたのが、我らがレイモンド・チャンドラーである。雑多な短編をいくつも書いた後、本格的な長編を七作品残した。私はこの七作品をオリジナルの英語版、フランス語翻訳版、日本語翻訳版の三か国語で読破している。筋金入りのチャンドラーファンなのだ。これらの作品の主人公はフィリップ・マーロウという私立探偵だが、「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない。」という名セリフは、ハードボイルドファンでなくても一度は聞いたことがあるはずだ。

長編七作品は全て映画化されている。マーロウ役の俳優はどういうわけか作品ごとに異なる。その中で『大いなる眠り』はハンフリー・ボガートがマーロウを演じた(1946)。このときの彼のスタイルが大変印象深く、以来、ハードボイルドといえば、ボギースタイルが定番となっている。ちなみに、ヒロイン役はボガートの25歳年下の妻、ローレン・バコールであった。(ボギースタイルは1942年の映画『カサブランカ』で定着したという説もある。)

ところで、チャンドラーの作品は主として日本ではハヤカワ・ミステリ文庫から翻訳が出ているのだが、この翻訳の出来は最悪である。誤訳、拙訳のオンパレードだ。子供の頃、赤ペンで添削しながら読んだのだが、全ページ真っ赤になって唖然とした。本来、こうした貴重な作品は様々な出版社から翻訳が出て、自由に読み比べることができればよいのだが、独占翻訳権などというものを取得して他社の翻訳を許さない出版社が後を絶たない。文学界の悲劇である。

もっとも、最近では村上春樹が新訳を出しているようだ。でも、村上春樹の翻訳って、昔から超が付く自由訳だからなあ。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』も意訳のオンパレードだったし、正直あまり期待はできない。

フランス語翻訳もひどい。フランス人はかなりズボラらしく、ストーリーに直接関係ないとみるや平気で数ページも省略してしまったりする。困ったものだ。やはり、チャンドラーはオリジナルの英語版で読むしかないだろう。

長編七作品は全て傑作だ。ただし、最後の『プレイバック』だけは異論が出るかもしれない。ストーリーが単純だし、謎解きも面白みがない。そもそも長編と呼ぶには短すぎる。ただ、私は孤独だったマーロウに遂にハッピーエンドが訪れるっぽいエンディングに共感を覚える。作品の質という点では、『高い窓』や『長いお別れ』がイチオシだ。

というわけで、きびだんご日記は国王の趣味でたまにハードボイルド小説風に書いたりする日もあるのだ。

 

きびだんご王国のFacebookページは、コチラ

カテゴリー : もろもろ